西郷隆盛の少年時代

西郷隆盛像 幕末

鎖国の真っ只中である1840年(天保11)薩摩で西郷小吉(後の西郷隆盛)が郷中教育を受けていました。

ここで先ず西郷隆盛の生まれについてですが文政10年(1828)12月7日に父吉兵衛と母満佐の長男として鹿児島城下の下加治屋町に生まれました。
父の吉兵衛は鹿児島城下に住む事を許された御小姓与の勘定方小頭なので班長、つまりは今でいう係長のような立ち位置でしょうか。しかし城下に住むことを許されない郷士に比べれば格上とはいえ御小姓与は城下に住める城下士の下から二番目の家格である事に加えて西郷家は使用人なども合わせると合計14人の大所帯(吉兵衛が家督相続した弘化4年(1847)の家内人数は16名で翌年に2人出て行き14名になった)のため、その暮らし向きは決して楽なものではありませんでした。

貧乏話としては冬になっても西郷家の布団の数が足りないため西郷隆盛は弟妹を布団に寝かせて自分は足だけを突っ込んで寝たという暖かい薩摩に生まれて良かったね。と感じずにはいられないエピソードが有り、母の満佐は子供たち7人に対して「貧乏それ自体は恥ではない。恥ずかしいのは貧乏に敗けることだ」と金持ちが言うなら素直に聞けるんだけど貧乏な状態で聞くと思わず涙が出てきてしまいそうだなぁという事を言って聞かせていたそうです。
しかし父と母の仲は良かったようで二人の間には七人の子供を生まれており西郷隆盛は弟と妹が夫々3人ずついました。貧乏の子沢山とはよくいったもので、お陰で父の吉兵衛は本業の他にも副業にせっせと励んでついでに子作りにも精を出してまた貧乏になるという悪循環の中にいました。

話は戻り郷中教育についてですが、これは薩摩独特の教育制度になります。城下仕の住む地区を6つに分けて教育が行われていました。薩摩では6、7歳になると郷中に入り、22、3歳までの間はこれから抜けることを許されないと言う今でいう暴走族のような掟がありました。そして入った年齢から12、3歳までを「稚児」14、5歳から23,4歳で妻帯するまでを「二才(にせ)」と言いました。
ここでは年長者が年少者を文武にわたって指導しました。そのため自然と長幼の序の教えのようなものが自然と身に着くようにもなっていました。
そして、郷中教育のなかでは嘘をつく事、弱い者いじめをする事、負ける事は悪い事だと教えられ、更に、敵と徹底的に戦うが、相手が降参したら残虐な行為には出ないようにすることが教え込まれました。また他の郷中の人間と交友を結ぶ事も許されませんでした。これは郷中同士で競わせることを目的としていたようで実際に郷中同士が出くわすと諍いに発展することが多かったようです。

また小吉は7歳から郷中教育の中に入り赤山靱負の下で漢文の素読を行い、8歳からは藩校である造仕館に通い座学では儒教の経典である四書五経を中心に当時の官学とされた朱子学を中心に学んでいました。
小吉は赤山靱負の下で学問を学びましたが、彼は島津家の血筋である日置家に属しており、小吉の祖母も日置家の家来の出であった縁から吉兵衛が赤山家の御用人、つまりは様々な雑務を副業の一つとして行っているので二重にも三重にも西郷家は頭が上がらない存在であったようです。

小吉のいる下加治屋町郷中と高麗町郷中の連中でどちらが川を縄張りとするかの争いや妙円寺詣りでの争いや更には争いに負けた腹いせに高麗町郷中の者達が小吉を襲撃して刀で重傷を負わせた者が後日になって父親に連れられて謝りに来るとあっさりと許してしまう件は、先ず相手方は郷中同士での争いの戒律である「刀を抜いてはならない」「刀を抜いた場合は必ず相手に止めを刺さなければならない」「斬ったなら裁きを受ける前に切腹せよ」を忠実に遂行しようとしており、西郷家も「相手が降参したら残虐な行為には出ないようにする」という郷中の教えを実行しているとも言えます。まぁ個人的にはすっぱりと行って欲しかったのですが仕方ありません。

小吉の傷は終生彼に剣を握ることを許しませんでした。後に彼と初めて出会ったイギリス公使館付通訳のアーネスト・サトウが直ぐにその存在に気づいたという事なので傷跡からみるとその深さは余程のものであったようです。しかし、これが彼に弱い者に優しくするという教えを自分の実感からも深く学ぶことになった事、そして剣の道が断たれた事によって勉学に励むことになった事が彼の運命をより良いものに導いたのではないかとも思えます。と、言うのも西郷隆盛の少年時は賢い才能に溢れる子供というよりかは、どうも、うどん、と言うか、愚鈍。と見られる向きがあったようなのです。この傾向は多少は残ったようなのですが、この負傷が潜在していた才能を以前と比べれば顕在化させていく切っ掛けになったのではないかと考えると人間万事塞翁が馬という言葉を思い出します。

おそらく薩摩が教育によって求めるものは規律の取れた戦闘集団を作り上げることです。
郷中教育は地域の団結を自然と強固なものとさせました。従って戦時となれば、下の戦力にならない稚児たちを除いて二才の青年たちだけ残せばそのまま戦闘集団に転じさせることが出来ます。
しかし大人の思惑通りに動かないのが子供です。封建制を支え続けたといわれる朱子学を学びながら後にそれを批判する陽明学へと傾いていったことを考えると何も思惑通りに動かないのは子供に限ったことではないのかもしれません。