西郷隆盛像

西郷どん2話「立派なお侍」感想②斉彬の孤独


西郷が貧乏で家族と喧嘩をしていると大久保正助(後の大久保利通)がやって来て記録所書役助に就く事になったと知らせます。
大久保利通は幼い頃に下加治屋町に引っ越してきた兼ね合いから西郷隆盛と親交を結び、幕末維新に於いて唯一無二のパートナーともいえる存在となり、やがては倒幕に尽力した維新の三傑にも数えられることになります。
武術に関しては胃腸が弱かった為に不得手としたようですが学問に関しては郷中随一の評判だったようです。因みに記録所は家格の調査の為に系図や文書を調査し、藩士たちの格式や序列形成に関わっていたようです。どうも江戸時代になると藩士達の間でどちらの家格が上だとか他にも正妻が生んだ嫡子かそうでないかということで揉め事に発展することがあったようです。そこは戦闘民族薩摩人ですからやはり殺し合いに発展することが多かったのではないだろうかと想像します。その序列を決める部署となると当然、権威性が求められる事となり、それなりの人物でなければ起用されないと考えると、当時の出世コースだったのかもしれません。

大久保利通の紋付きを吉兵衛が褒めるとそれに引き換え・・・。と言って隆盛の格好を揶揄しますが、後の幕末の頃に隆盛と会った勝海舟は轡の紋の付いた羽織を着た風采の良い男であったと回想しており同様の話がいくつか見つかっている所を見るとどこかのタイミングで身なりに気を使うようになったようです。しかし、その半面で写真に写ることを頑なに拒み、ついには明治天皇から自分の写った写真を要請された時にも断っており何ともよく分からない男です。

場面は変わって、島津斉彬が江戸から帰国すると父であり藩主でもある島津斉興に大砲の調練を行いたいと申し込みます。斉興は参加藩士2千人の大規模なものであることに驚くと傍に控える調所広郷に予算が大き過ぎると反対されますが、斉彬は調所に作った裏金をまわしてくれと牽制し、更にはイギリスの軍艦が攻めて来たと父親を恫喝し、更には桜島が呆れているとまで痛烈な皮肉を飛ばします。
どうも上層部と反りが合わない斉彬です。

この状況については斉彬の祖父であり500万両の借金を作ることにもなった25代当主である島津重豪(しげひで)の影響が考えられます。重豪は当時、蘭学に傾注した蘭癖大名、簡単に言うと西洋かぶれした大名の一人とされていました。これを個人でやれば近所の変わり者位で済むのですが残念ながら、この人は薩摩藩主なので行えることも多く、自分は洋学者に学ぶ一方で西洋風の博物館や天文館、医学校などを作るといった具合に予算を好き放題、湯水の如く使って500万両(現在の貨幣価値で5000億円程度)の借金をこさえるという中々に困った御仁でした。そして重豪が溺愛したのが斉彬だと言われ風呂に一緒に入るほどだったそうなので、正に目の中に入れても痛くない曾孫として可愛がられていたようでシーボルトと会見した際にも斉彬をしっかりと同席させていました。このお陰で斉彬も蘭学を学ぶ事となり斉彬は早い段階で日本の開国が避けられないことを見越すことの出来る人物へと成長します。しかし重豪もこのままでは流石に不味いと思ったのか晩年になって下級武士であった調所広郷を起用して財政再建へと取り組み斉興の代になってようやく成果を見せています。
どうも斉興には斉彬と重豪が重なって見えるようで、斉彬に藩主を譲ることで再び大きな借金が出来て再び財政破綻を来たすことを恐れたのではないかと思います。実際にこの頃の薩摩藩は大名へ金貸しを行う大名貸からも借金を断られる程に財政が逼迫しており一般の高利の金貸しからも借金をしなくてはならないという状態から財政再建の目処を付けるのは並々ならぬ苦労があった筈です。その為に斉彬に藩主を譲った後も斉興は後見人になると宣言して中々、実権から離れようとはしなかったようです。そして久光に期待していたようで久光へ宛てた嘉永4年(1851)1月29日の私信で、斉彬は小心者で疑り深い人物であると散々な評価を下しており、斉彬が40歳を過ぎても家督を譲ろうとしませんでした。

そこから時を改めて
斉興が斉彬の書いた報告書を畳に叩きつると内容について問いただします。内容は薩摩の沿岸警備の中に不備があると告げるものであったようです。斉興は報告書の内容が幕府に知られることを恐れますが、斉彬は海外の侵攻が行われる危険性を指摘しようとすると、斉彬を幕府の手先と怒鳴りつけ、更には久光を藩主名代とする宣言までします。
これを受けて斉彬は江戸へ発つことを決め、城から出る際に赤山にそのことを話します。それを赤山は薩摩にとって斉彬が必要な人物であると引き止めようとすると、琉球や密貿易の事など諸々のことを幕府に告げて、それを背景として藩主になることを決めたことを告げます。

事実、この後に斉彬は幕府の力も利用しながら藩主となるべく努めていく事となります。調べていると斉興の近くに斉彬を擁護する人間が居れば状況も変わって来たのではないかと思うのですが、斉彬の母親である周子は文永7年(1824)に死去してしまっており、この人は「賢夫人」と称されて尊敬を集めた人物なので、健在であれば後の斉彬と斉興の間を取り持ち、お家騒動も起きなかったのではないかと言われています。但し、この人は嫁入りするにあたって「四書五経」「佐伝」「史記」などの書籍を嫁入り道具として持って来て薩摩藩の人々を驚かせた人物なので蘭学なんて西洋にかぶれてと言った見方をされた可能性もあるので、やはり先端を行く人間が周囲から理解されず孤独になるのは、ある程度は仕方ない面があるのかもしれません。

西郷隆盛は大久保利通という最大の理解者であり最高のパートナーを得たのに対して、島津斉彬という人を対等な立場で理解する人は居なかったというのが、もしかしたらこの人が短命であった理由の一つなのかもしれない等と思いました。

西郷どん2話感想つづく。

 
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