真田丸感想50話最終回感想⑫その後の家康について


戦国時代最大規模にして最後の戦いである大坂夏の陣は僅か三日間で幕を閉じました。

当時の戦いを細川忠興は書状の中で
一時之内二天下太平二成申候
(瞬く間に天下太平の世になりました)
と書き残しています。

更に五月七日に行われた最後の決戦である天王寺・岡山合戦に限ると正午頃に始まり午後四時頃には終わっており僅か三時間程でしかありませんでした。

五月五日 上洛中の家康と秀忠の軍勢が動き始める
五月六日 河内の道明寺や八尾・若江の地で両者が衝突
五月七日 大坂城落城。申の刻、秀頼、淀君自害

この戦は戦略と戦術のどちらが優れているのかを競っているようにも見えました。

戦略では徳川家康が政治的な手腕によって大坂城の堀を埋め立て丸裸にした上に豊臣方の倍以上の兵士を揃える事に成功しています。そのため勝利を確信した家康は鎧も着けず戦場に臨みました。

戦術では真田幸村が特筆に値すると思います。戦場の大きな流れを決める緒戦で毛利勝永が予想外の大勝利を納めるという活躍が有ったにしても、機を見て自分の数倍の兵数を擁して志気の高い松平忠直(幸村隊三千五百、忠直隊一万五千、忠直は先日の若江・八尾の戦いに参加せずに傍観していたことを家康から叱責された汚名返上に向けて士気は高かった)を正面から突破すると兵数四万の居る家康本陣に乗り込むとこれを散々に蹴散らし、これに家康は馬印を倒された挙げ句に自分の本陣から命からがら逃げ出す事となり一時は切腹寸前まで追い込まれています。

細川忠興は幸村の活躍を「左衛門佐、合戦場にて討死、古今これなき大手柄」と書き残しました。
これは決して過大評価ではなかったと思います。途中で秀頼が出陣していれば共に待機していた兵数万が出陣する事となり、戦場で戦う兵士達の士気も上がったと考えると寸前で届かなかった幸村の槍が家康を捉えた可能性は十分にあります。結果だけ見れば短期間で家康の圧勝に終わった戦ですが、実際の所は喉元に刃を突きつけられたまま家康は戦っていたように見えます。

そう考えると今回の戦が勝利を確信した家康の油断を幸村が突いて終わり。後世に戦略的な優位は時に戦術によって覆されることがあるという教訓として残ったとしても何ら不思議はありませんでした。

では、両者の勝敗を分けたものは何だったのでしょうか?

これを考えると家康により運があった。これが勝敗を分けたのだろうと思います。もしも結果に意味を求めるのであれば未だ家康には背負うべき天命が残されていたという事になるでしょうか。

燃え盛る大坂城では徳川方は退路を開き城の人間達を逃します。これは中に残る兵士達の抵抗を減らすことを目的とした城を落とす際の定石の一つです。そしてこういった形で逃がした兵士達については重要人物を除いて通常では追求の手が打たれることはありません。しかし家康はこういった者達についても執拗な残党狩りを行いました。

豊臣から天下を簒奪した格好となった家康ですが、これは彼自身も負い目となっていたようで秀頼を滅ぼすと決意してから南無阿弥陀仏の念仏六万編を書き写していた事からも伺えます(日課念仏と呼ばれる)。しかしこれは途中で筆跡が変わっているという指摘もあり、始めは自分で書いていたようなのですが途中から別の者に書かせていた可能性が高いと言われてもおり、家康にも調子の良い面があり、作中の通り周りから焚きつけられることで天下取りが始められたという一面もありそうです。しかし、天下取りは、やがて家康自身の望みとなり其れは治めるに相応しい者の手によって為さなければならず、其れを成し遂げられる存在は自分以外にないという自覚へと変わっていったのではないかと思います。
これを自己の正当化と取るかどうかで、その人の家康への評価が分かりそうな気もしますね。

何れにせよ徳川家康は戦のない世の中を実現させます。

大坂の役が終わった後に家康は元号を元和と改め、天下の平定されたことを内外に知らしめました。これは後に元和偃武と呼ばれます。偃武とは武器を武器庫に収めることで有り、これ以後、幕末まで軍事衝突が行われずに平和が続いたことを賞賛する意味で幕府側がそう呼びました。自分で言っている辺り、やはり偉くなるにはある程度、面の皮が厚くないといけないのかもしれない等と思ったりもします。

元和元年(1615)大坂の役が終わると「豊国乃大明神」の神号を与えられた豊臣秀吉を祀る豊国神社を廃絶として神号を剥奪。社殿の取り壊しは北の政所(寧々)たっての願いによって免れるますが、以後、手入れを行わず朽ち果てるまで放置される事となりました(後に徳川幕府が終わった明治維新後に明治天皇の命によって再興)

他にも市中に匿われていた秀頼の子である当時八歳の国松を捕らえると五月二十三日に京の五条河原にて斬首。併せて豊臣方の残党狩りも執拗に行っており、これには豊臣を必ず滅ぼし徳川幕府に逆らう者を無くし支配体制を盤石なものにするという強い意思が感じられます。
もしもこれが今回の戦によって少数戦力であっても、例えば将軍を暗殺することで支配体制を揺るがすことが出来る。今で言うならばテロリズムの恐怖を今回の戦で学んでのものであったならば皮肉であるようにも思えます。

元和元年(1615)七月七日、家康が起草した全国の大名を対象とする「武家諸法度」を伏見城で能楽を催すと諸大名を集め本田正信から発布する旨を告げると金地院崇伝に読み上げさせる形で発布。
元和元年(1615)七月十七日天皇と公家を対象とする「禁中公家並公家諸法度」は前関白二条昭実が能見物を行う旨にて公家衆を集めて読み聞かせる事で発布。また、この禁中公家並公家諸法度には前関白二条昭実と大御所家康、将軍秀忠の花押が押されていました。

この武家諸法度と禁中公家並公家諸法度は、それぞれ半ば騙し討ちが如く大名や公家達を集めて中身を呑ませている辺りは家康が狸と呼ばれる本領を発揮していて面白いと思いました。
しかし、武家諸法度は後も発布される際には将軍は席を外して行われている事から、この時も秀忠は席を外していたと思われます。
(武家諸法度は後に何度か改訂されており、秀忠が発布したものは「元和令」参勤交代などの項目を追加して家光が発布したものが「天和令」綱吉が発布したものが「正徳令」)
将軍の威光を示すならば、その場に同席して将軍の意向であることを示す筈です。しかし将軍は席を外した場で行われるということは、法と将軍の存在は別であることを示しており、つまりは将軍という専制支配ではなく、法による支配であることを示しているのだと考えると家康の深謀遠慮が見て取れます。今後、大名達は法という制約の中で生きていくことになることが決められたわけですが、言い換えれば法から逸脱しなければ大名達の自由は保証される。そして幕府もまた同様に法を越えて大名を制することは出来ないという事になります。
公家諸法度に関しても、これも二条昭実の花押が並べられている点を考えると徳川幕府が押しつけたものではなく武家と公家の最高責任者による共同の意思であるということを示そうとしたのだと思います。

家康は武家所法度によって大名統制を堅固なものとし、禁中公家並公家諸法度によって朝廷政策を固めます。

元和二年(1616)家康は鷹狩りに出た先で倒れます。これは一般的には天ぷらによる食中りであったと言われていましたが、現在では当時の家康の症状として吐血と黒い便、手で触って確認できるほど大きなシコリが腹に出来たといった胃癌に見られる症状であったことが書き残されている点から家康の死因は胃癌によるものであったとする説が有力です。従って数年前から家康は自分に残された時間が僅かなものであることを知っていたのではないでしょうか。そんな家康にとって方広寺鐘銘事件は天下統一を果たす為の最後の機会と写っていたのではないかと思います。

その後、床に伏した家康を各大名が見舞いに訪れます。その中には福島正則の姿も有ったのですが、家康は枕元に呼び寄せると自分の死後、秀忠に無道の政治があったならば汝等が其れに取って代わるべしと伝えました。
見舞いに来た諸大名が帰った後、家康は正純に正則の様子を聞き「何とお情けなきお言葉」と正則が泣いていたことを聞き出している辺り病に伏して尚、正則が反乱を起こすことを懸念して、それを確かめる為の言葉であったのだとすれば家康の老獪さは健在であると見るべきでしょうか。

家康は諸大名たちにも同様に次の言葉を遺します。

大樹(将軍秀忠)の政策ひが事あらんには、各々代わりて天下の事はからふべし、天下は一人の天下にあらず、天下は天下の天下なれば、吾これをうらみず

将軍に天下を治める器が無ければ、代わって相応しいものが治めれば良い。それを自分は恨まない。
家康は天下を治めるに相応しいものが天下を治めるべきであり、それ故に相応しくない者が将軍に就くのであれば自分同様により相応しい者が取って代わるべきであるという考えであったのでしょうか。そう考えると正則に伝えた言葉は案外に本心であったのかもしれません。

元和二年四月十七日 巳の刻(午前十時頃)死去。享年七十五。

大坂の役が終わり僅か一年足らずの短期間に家康は徳川幕府の根幹を成すこれだけの事業を行っている点を鑑みると、やはり家康は自分の死期が近いことを悟っていたが故の決断が今回の戦であったように思えます。
孫子の兵法の中に死を覚悟した死兵と戦うなというものがあるのですが、戦上手で鳴らし海外からの情報収集も怠っていない家康が兵法の基本である孫子の兵法を研究対象から外しているとは考え辛く、その禁を犯してまでして死兵と化した豊臣と短期決戦を行うことを決断し、時に慎重な家康とは考え辛い拙速にも見える手を取った理由が分かった気がします。そして後の天下泰平の世に禍根を残すまいと嘗て源頼朝と義経が平氏から支配を取り戻した二の舞を避ける為に豊臣の者は残らずに必ず滅ぼすと決めたのではないでしょうか。

その後、徳川幕府は二百六十五年間もの長きに渡り続く事となります。最後の将軍は家康の再来と謳われた第十五代将軍徳川慶喜。家康の再来と謳われた者が最後の幕引きを行ったのは歴史の皮肉でしょうか。
いえ、ここは最後に補足しましょう。彼が幕府存続の為に戦うことを決断していたら日本は外国に侵略される怖れがある状況でした。それを避ける為の英断を行うことが出来たのは彼に家康の再来と呼ばれる器があったればこそであった。家康であっても長年に渡る組織疲労と腐敗を防ぐことは出来なかったが、その幕引きを行い次代にバトンを渡す者を遺すことは出来たのだと。

真田丸感想 続く。

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