石田三成について

ケシの実と夕日 歴史

石田三成は豊臣政権の中で重責を担い、家康と対立して関ヶ原の戦いに敗れ、その死後は奸臣と罵られる事となりました。
その一方で大谷吉継や直江兼続といった人物達と確かな絆も築いている。
石田三成という人物が気になってしまい調べたものをまとめてみます。

近江生まれの三成
石田三成は永禄三年(1560)近江国坂田郡石田村の土豪(村の武士)であった石田正継の家に生まれました。幼名は佐吉。
他に兄として石田正澄がおり、この人も行政能力が高く豊臣政権内では片桐且元等と並んで十奉行に入っています。
石田家は商家ではありませんでしたが土地柄から商人が多く、その影響が大きかった事が推測できます。その為に三成は算術を重視して修得していたのではないかと思います。その能力は秀吉に付いた後に戦場での糧食の手配や配分といったロジスティクスのような後方支援で成果を発揮させる原動力となったのではないかと思います。

また三成の生まれた地域は近江商人たちを生み出す場所です。近江商人の主人は自宅の中に北向きで暗く狭い場所に部屋を持つと言います。そう言った部屋に身を置く事で商売の為に外に出る事を促進し、己の慢心を戒める為の知恵であるだと思うのですが、三成もまた贅沢というものを求めておらず、関ヶ原の戦いの後に三成の城であった佐和山城の内部を見た大名たちは秀吉の下で私腹を肥やして豪勢な暮らしをしていると思っていた城の壁は粗塗り、銘石、銘木の類も存在しない質素さに驚いたと言います。
また、三成は戦の際に「大一、大万、大吉」と書かれた旗印を使っているのですが、その正確な意味は明確にされていませんが「一人は皆の為、皆は一人の為、すると大吉が訪れる」と近江の三方よしに繋がる考えなのではないかと推測する向きもあるようです。


領民から愛される石田家

天下人である徳川家康に歯向かったとされる石田三成の領地であった石田村では江戸時代末期まで、村人が役人からキリシタンではないかの確認をされると共に石田の残党ではないかも問われ、自分はキリシタンも石田も信じていないという誓約書を書かされ、石田姓のものは名字を変えさせられたといいます。

石田村には他に石田家の氏神だったと言われる八幡神社(石田神社)があるのですが、その裏には苔むした盛り土があり、それに触れると腹が痛くなると村人に恐れられていました。後にそこを掘り返したところ墓石などが埋められているの石田家の墓所であった事が判明します。
そして三成は実際に腹を壊し易い性質で関が原の戦いで敗北して逃亡している途中でも腹を壊したという話があります。
しかし石田村の村人達がせめて石田家の墓所を守ろうと考えて人を寄せ付けないようにする為にどうしようかと知恵を出し合い「そうだ、石田様は腹が弱いから、墓を埋めた盛り土に触れると腹を壊すという言い伝えを流そう」と偽の言い伝えを残すことで石田家の墓を守ろうとしたというのは、それだけ石田家が領民から愛されていたという証拠でもあるのでしょう。

石田三成は理に勝ちすぎるきらいが有り、融通が利かない面があったものの根本には近江の三方良しである「売り手よし、買い手よし、世間よし」の思想が有ったことがバランス感覚を齎し領主としての優秀さに繋がっていたようです。

結果、石田家の墓は盛り土が掘り返される昭和16年まで守られる事となります。

豊臣秀吉との出会い
三成は十四、五歳の頃に寺小姓をしていた時に秀吉が鷹狩の際に立ち寄ります。
秀吉から茶を求められた三成は喉が渇いているだろうと考え、
一杯目は大きな器の茶碗にぬるめの茶をたっぷり入れて出しました。
秀吉はそれを直ぐに飲み干すと、もう一杯と希望します。
二杯目は先程より少し熱い茶を器に半分ほど入れて出します。
秀吉は更にもう一杯の茶を希望します。
三杯目は小さな茶碗に熱い茶を入れて出したと言います。
この三成の心遣いに感心した秀吉は三成に「儂の下で働かんか」と声を掛けて、三成は近習として取り立てられる事となりました。
この出来事は「三碗の才」「三献の茶」と言われる事となります。

「三碗の才」「三献の茶」は後の創作と言われていますが三成が智恵働きの人間である事を示しているよい話だと思います。

秀吉の下で頭角を現す三成
天正五年(1577)三成18歳の頃に秀吉が中国攻めを行った頃には行軍に加わっています。
戦場では槍働きではなく秀吉と家臣達との連絡役や兵糧や資金の調達と輸送の段取りをする兵站部門で働いています。
天正十年(1582)秀吉が毛利氏攻略の為に中国を攻めている際に本能寺の変が起きたことで京都に凡そ十日間で二百キロの距離を踏破した「中国大返し」と逸話で語られる驚異的な速さで引き上げて明智光秀を討ち取ることが出来たのは、その進軍速度に合わせ兵站の補給と輸送を行う事が出来た三成の働きも大きかったと言えそうです。
「中国大返し」を成功させて光秀を討ち取った秀吉は、その後に賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、大阪城を建て、やがて関白となります。それに伴って三成の活躍の場も広がって行く事となり天正13年(1585)三成は二十六歳にして関白となった秀吉の奉行となり豊臣政権で中枢を担うに至っています。

三成の幸運は秀吉の下に付けた事にあると思います。当時、武士の出世は槍働きによるものが一般的でしたが、多くの大名は戦で勝ち取った後の統治の仕組みは苦手としており官僚任せになるのがお決まりでした。
秀吉は戦が終わった後の統治の重要性を理解しており、且つ天下統一が見えて来た秀吉にとって戦の後に見えて来る統治の問題にあたることの出来る人材が三成であったことは秀吉と三成の両者にとって幸運であったと思います。

三成の功績
三成の大きな功績には「太閤検地」が挙げられると思います。計測に使う計りを統一して検地を行う事で各大名の石高を正確に把握できるようになり、それを元にして豊臣政権から税を掛ける訳ですから大名は実質的な支配下に置かれる事になります。
当然、大名たちはそれを嫌がりますが三成の事なので容赦なく検地を行ったのだと思います。実際に大和にあった柳生は山に田を隠し持っていたのを発見されて取り潰しの憂き目に遭っており、三成が大名たちから嫌われた理由はこの辺にもありそうです。

この検地が行われたことで毎年の税収を予想出来るようになるので予算を組めるようになりました。これによって二回に渡る朝鮮征伐の莫大な支出を捻出する事も出来たのですが、それが結果として豊臣政権衰退に繋がっていくのは皮肉でもあります。

他に三成は予算について「残すは盗なり、使い過ぎて借りるは愚かである」といった言葉を残しています。詰まり導き出した解からずれる事は即ち過ちであるという意味であり、算術に秀でた三成らしい考えであると思います。

石田三成と直江兼続の関係について

三成と兼続の両者には共通点が多くあります。
二人とも同じ年に生まれ秀吉や家康の一世代下の世代であり出自が高くない。
少年時代は共に才に秀でており、三成は秀吉に見出され、兼続は坂戸城城主である長尾政景夫人の仙桃院に見出されました。
そして二人は若くして其々の所属において中枢を担っています。

ある日、秀吉は連立政権構想を立てる。
西は毛利、東は上杉と結ぶ事で天下支配を円滑に行おうと考えます。
そこで東の上杉の交渉役にあたったのは三成、上杉側で対応したのが兼続でした。
その為に二人は書面でやり取りを重ねる事でお互いの理解を深めて行く事になります。
天正十三年、秀吉は上杉と会見します。
そこで三成と会った兼続は三成の言葉に嘘がなかった事を確かめる事になります。
互いに若くして政権の中枢にあり主君の信頼も厚い。他の者から嫉妬の目で見られる事も多く孤立する事もあったであろう二人は出会ったことでお互いに肚を割って話すことの出来る盟友を見つけた思いでもあったのではないでしょうか。

こうして東の上杉氏、西の毛利氏が上洛したことにより秀吉の政権基盤は一気に固まりました。

慶長三年(1598)上杉は会津へ国替えを命じられます。
北の伊達を抑える為です。その為に奥州の要と言われる会津を信頼できる人間に任せる必要がありました。
これは同時に徳川家康を抑える策も兼ねています。国替えによって上杉は九十万石から百二十万石へ加増。毛利輝元は百二十九万石を抱えています。家康は二百六十五万石。上杉と毛利、そこに豊臣を合わせれば徳川家康に石高で勝ります。

そうした意図で国替えを行った上杉に対して三成は自ら会津若松城に出向き領地経営の手助けを行っています。
三成が会津を去る時、二人の仲はより深い絆となっていた筈です。

その年の八月十八日、豊臣秀吉が世を去りました。

その後、関ヶ原の戦いで三成が敗れたことを兼続がどう思ったのかは不明です。
兼続は会津百二十万石から米沢三十万石に大きく領地を減らされた上杉家を守る事に必死だったというのもあるでしょう。
しかし兼続は三成のことを忘れてはいなかったのだと思います。
やがて三成の遺児の一人が米沢へ逃れて来ると兼続はこれを保護して匿いました。
逃れて来た遺児の子孫は後に分家の者が豪商となり、検断の職を務め、やがて本性の石田姓を名乗るようになりました。近江人三成の才覚は子孫にまで受け継がれていたようです。

三成の影響力について
他に豊臣政権内に於いて「取次」という役割があり各地の大名達の領地経営の指南役を務めているのですが、三成は島津、佐竹、上杉、真田の取次を務めています。
三成が豊臣政権内で発言力を持つ事が出来たのはこういった有力大名たちとの繋がりを背景とした面も大きかったのではないかと思います。

他に三成は大名と秀吉との取り成しも行っています。
諸大名からすれば秀吉が自分をどう思うのかは非常に重要な問題です。従って三成が自分のことを少しでも良いように伝えて貰うよう丁重な扱いを心掛けていた筈です。
実際に佐竹義重は家督を子の義宣に譲ったことを報告する際に「秀吉殿が義宣にも目を掛けてくれるように」と三成に取り成しを依頼しています。
また義宣はお家取り潰しの危機にあった際にも三成の奔走によって救われてもいます。こういった行いによって三成は自分に味方する大名を増やすことで影響力を強めていったことが分かります。

その反面で、それは諸大名から時に三成の傲慢と映り、また諸大名の三成への態度は秀吉の存在ありきのものであったことが三成の見込み違いに繋がっていたのではないかとも考えられます。

三成の鈍い点
調べていると三成はいわゆる朴念仁であったことが随所から窺えます。例えば茶々が秀吉の子を懐妊した際、三成は寧々に茶々に子供が出来て目出度いと語ったと言います。確かに豊臣政権に取って茶々の懐妊は政権の安定を齎す良い報せですが、一方で正室である寧々自身は秀吉の子を産む事が出来なかったのは大きな負い目であった筈です。その人物を目の前にして茶々の懐妊を喜んでしまう辺り、やはり三成には人の気持ちを察するのに鈍い面があったことは否めないようです。

島津家と三成
天正15年(1587)秀吉は九州侵攻を行い島津を降伏させています。
三成は島津降伏にあたって間に立ち、島津降伏後はその領内の検地を行い豊臣との間を取り成す役割も担っています。
検地では当初、島津領は二十一万石として出されていたのですが検地をしてみると更に三十六万石の増加分を検出されており中々ダイナミックな誤魔化しをしていました。加えて島津家臣たちの領地替えと豊臣の直轄地の設定を行うといった豊臣への家臣化を着々と進めて行きます。しかし島津側は豊臣の力を借りることで反対派の家臣団を抑え領国の再建を行う事が出来たというメリットもありました。この際に三成に協力的であったのは島津義久の弟である島津義弘でした。関ヶ原の戦いに於いて島津は義弘のみが兵を出しています。しかし、関ヶ原で義弘は兵を動かす事なく撤退します。同じ島津の中でも豊臣と距離を置く兄の義久と豊臣に協力的であった弟の義弘という二重構造は三成の死へと繋がる事となりました。

戦下手のレッテル
天正18年(1590)秀吉の北条攻めに三成も加わります。北条氏の入る小田原城を囲む小田原包囲軍が作られ、三成は小田原城西側の石垣山に盟友大友吉継と隣り合って陣を構えました。
布陣した一か月半後に小田原包囲網から離れて北条の支城攻略に三成は駆り出されます。
その後の五月二十七日は大谷吉継、長束正家と共に館林城を攻略開始、三十日に開城させることに成功。次に三成は二万の軍勢を持って武蔵国忍城の攻略を開始。三成はこの城を水攻めにしようと「石田堤」と呼ばれる堤を完成させますが、これは決壊して失敗。
結局、忍城は小田原城が開城した後も抵抗を続け落城したのはそれから十日後でした。これによって三成は戦下手のレッテルを貼られる事となりました。
三成は自分が戦下手であることを承知していたようで、島左近を自分の領地四万石の半分である二万石で部下としています。それを聞いた秀吉は自分の部下が自分と同じ報酬等というのは聞いたことがないと膝を叩いて笑ったといいます。

三成の最期
関が原敗北の後に三成は伊吹山に逃げて捕まります。
捕まって大阪や堺の町を引き回される三成に藤堂高虎は「何ゆえ死ななかったのだ。こんな生き恥を晒して」と声を掛けると「生きていなければ再起の機会は巡って来ないからだ」と答えたそうです。

更には形場に向かう最中に三成が「喉が渇いたので湯が欲しい」と言うと役人が柿を渡したそうです。しかし三成は柿は痰の毒だからだといってそれを口にしませんでした。
役人は「これから処刑されるのに毒も何もないだろう」とあざ笑いますが三成は「これから処刑されるからと言って、もうどうでも良いと人生を投げるのは、本懐を遂げようという志を失う事だ。生ある限り、志を失わないのが私の生き方だ」と答えたといいます。

最後に
1596年(慶長元年8月)に石田三成は博多の豪商である神屋宗湛に石鹸を贈られた礼状を書いています。
石田三成という男は確かに朴念仁で融通の利かない部分も有ったようですが、その一方で石鹸で手を洗うような清潔感を持った男だったのではないかと思うのです。

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