千利休が切腹に至った理由について思うこと

利休という人について 千利休は大永2年(1522年)和泉国の堺に生まれました。 幼名は田中与四郎、南宗寺で修業を行い宗易という法名を授かり他に抛筌斎(ほうせんさい)とも呼ばれていました。 利休という名は居士号であり、居士 …

大坂の役から後の徳川家康について

戦国時代最大規模にして最後の戦いである大坂夏の陣は僅か三日間で幕を閉じました。 当時の戦いを細川忠興は書状の中で 一時之内二天下太平二成申候 (瞬く間に天下太平の世になりました) と書き残しました。 更に五月七日に行われ …

大坂夏の陣から後の千姫について

大坂夏の陣で豊臣方の命乞いのために城から抜け出した千姫ですが肝心の徳川家康本陣の場所が分かりません。 一方で家康と秀忠も千姫を探しています。家康は燃え盛る大坂城を見て兵士を奮起させるため千姫を助け出した者には千姫を与える …

大坂夏の陣での片桐且元

真田丸で大坂夏の陣において片桐且元のことが描かれなかったので、私が想像して書いてみたいと思います。 慶長二十年一月、大坂夏の陣が始まる前の事です。 且元は家康に目通りを願い、面談が叶うと家康とごく短い挨拶を交わすと改めて …

日本二十六聖人について

豊臣秀吉はキリスト教の禁教令を発布しています。 実は以前にもバテレン追放令を出しているのですが、それでもキリスト教の布教を止めませんでした。 これはキリスト教の布教は同時に交易も行われることからのお目溢しであったようです …

貿易の実利と宗教という洗脳との天秤に揺れる豊臣秀吉のバテレン追放令

秀吉はサンフェリペ号の積荷を回収する口実としてバテレン追放令を口実として利用していますが、そもそもバテレン追放令とは何なのでしょうか? バテレン追放令とは 秀吉はもともとキリスト教に対して織田信長の方針を継承して容認して …

小田原攻めでの北条氏の思惑を凌駕する豊臣秀吉

今回は天正18年(西暦1590年)に豊臣が北条氏を下すにあたって小田原城を攻めた小田原征伐で起きた北条氏政の誤算について書いてみたいと思います。 北条氏政が籠もる小田原城は豊臣方に隙間なく囲まれています。 北条の城を中央 …