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新しい芽生え

文明の起こり

岩波講座の世界歴史の旧版を今さら読み始めました。
最初は本編29巻セットを5千円位で安く買い叩いた時は得したと思ったのも束の間、いつしか5千円やるから誰か持ってってくれないかな?と思うほどの邪魔者と化してから結構な月日が経ちました。
そう。A5判で本編29巻函入りは積み上げると私の身長よりも高く、その大き過ぎる存在感を無視し続けるのも限界が近い。このコロナ禍の中でステイホームが叫ばれる今が読み始める最後のチャンスかもしれない。
私はこの書籍群を消化する最後のチャンスに直面しているのだと感じました。それともしなければブックオフに1冊1円位で買い叩かれるかゴミとして無料で引き取られるか資源ごみの日に出すのか選ばなければならないと思って一大決心のもと開いてみました。
出版は1969年なので正真正銘の古書なのですが意外にも内容は面白いです。

そこで序盤を読んで文明の起こりについて書いてみます。
文明の起源については諸説あるようなのですが、ここでは後氷期に地球全体を襲った乾燥化に対しての対応によって起きたという説を基にして書きます。

それまで人類は狩猟によって食料を得ていました。
しかし気候変動によって獲物となる動物の数が減少します。
そうなった人類が取った行動は主に次の3つ。
1,獲物と移動した気候帯を追って自分たちも北や南に移動
2,その場に留まり大きく減った数の獲物で我慢する
3,少ない動物を飼い慣らし放牧と農耕することで暮らしを立てる

以上の中から新たな挑戦である3番目の選択肢を選んだ人々は獲物を狩って暮らす獲得経済から農耕や牧畜によって生産経済へ移行することになります。

農耕や牧畜を行うということは、その日の運によってある日は獲物が全く取れず、別の日は大きな獲物が取れるといった不安定な状況から開放されることを意味します。
(獲得経済の際には獲物が取れなかった時にお隣さんが大きな獲物を取ったと聞けば、どうせ食べきれなくて腐っちゃうんだから分けてくれろ等と言って、隣近所の連中がたかりに集まってきます。すると「おう!どうせ腐っちゃうから持ってきな。代わりにうちがオケラだった日はよろしくな」的なやり取りをして、たかったりたかられたりしながら暮らしていた頃が実は一番格差が小さく平等な世界であったというのは皮肉な気もします)

農作物の生産であれば毎年の収穫物の取れ高の予想もついてきます。これは食生活を安定させることになり毎年の活動もある程度ルーティン化してきます。
例えば、春になったら種を植えて、秋になったら収穫してといったように行動に予定が立てられるようになってきます。そうすると農機具は大体何年で壊れるといったことも読めるようになってくるでしょうからある程度の人口があれば今まで皆が片手間で作ったり繕う、もしくは短い期間だけ手先の器用な人が片手間で農機具の製作や修繕を行うといった専門的な職人という職業が成立します。
それは今まで手の空いた時間に片手間で作っていたものから専門の職人が生まれたことで需要と供給が見合えばより高度な道具も作られるようになっていったのではないかと思います。

他にも農産物の中でも米や小麦といった長期保存可能なものは蓄積することが可能です。
今までなら狩猟した獲物は時間が経つと腐ってしまうので周り近所の人に分けていたものが、農産物はある程度保存することが可能なので、米や小麦がたくさん取れたみたいだから頂戴と言っても、後で食べるから駄目だと言って断るか貸すようになれば、今までのように分け与えることが無くなるので結果として富の偏在、つまりは格差が生まれることになりました。
他にも農作物を育てるのに適した肥沃な場所というのは限られます。その地を巡って争いも起こるようになり、これはやがて戦争と呼ばれる規模に拡大していきます。
これらは文明の発生による負の側面でしょうね。

当初の人の集まりというのは狩猟で獲得した獲物が食べきれない時に獲物を分け与えるのに完全な他人には抵抗があると思うので、ある程度の近親者で集まって獲物を追って移動していたと考えると比較的少人数で集まった野生動物が作る群れに毛が生えた程度の集まりだったのだと思います。
それが農作物を作るということになれば定住することになります。
しかし先ほど述べた通り農業に適した土地は限られているので、その地を巡り争うか共存するかを選びながら群れが集まり、村落となりやがて都市や国家の規模へと発展します。

以上のように考えると、文明というのは望むと望まざるとに関わらず変化することを選び農業に挑戦したことを端緒として発生したのだと思います。
狩猟等による刹那的な生き方から環境の変化を切っ掛けとして農耕や牧畜を行うようになったことで計画的に生きることが可能になった。それは食糧の蓄積のみならず知識、技術の蓄積も可能としてきました。
それらが連綿と続いて今の現代があるのでしょうね。

それでは今日はこの辺で

千利休が切腹に至った理由について思うこと

利休という人について

千利休は大永2年(1522年)和泉国の堺に生まれました。
幼名は田中与四郎、南宗寺で修業を行い宗易という法名を授かり、他に抛筌斎(ほうせんさい)とも呼ばれていました。
利休という名は居士号という出家せずに家にあって修行を重ねる仏教者へ与えられる呼び名となり、与えられた理由は天正13年(1585年)10月に宮中参内するにあたって町人の身分では入れなかった為に僧籍として入れるよう正親町天皇から与えられたものです。従って利休の名乗りは晩年63歳頃からのもので彼はその生涯に於いての殆どは宗易と名乗り過ごしていました。

利休は堺の商家に生まれ彼自身も商人としての顔を持ちます。ルイス・フロイスは境市民の気質を自著である「日本史」の中で傲慢で気位の高いことは非常なものと語っています。

利休は若くから茶の湯に親しんでいました。
織田信長が堺を直轄地とした際に茶頭として雇われ本能寺の変から以降は秀吉に仕えました。
秀吉から信任されて聚楽弟に屋敷を構え三千石の禄も得ていました。

しかし天正19年に入り豊臣秀吉から堺に蟄居を命じられます。
利休の蟄居期間は弟子の前田利家や古田織部、細川忠興たちが利休助命の為に奔走しますが、その願いは叶いませんでした。
蟄居期間が終わると利休は切腹の為に京の聚楽弟に呼び戻されます。
その際、利休の弟子たちが利休奪還の動きを取る恐れがあった為その周囲は上杉景勝の兵三千人が取り囲みました。
天正19年2月28日 聚楽屋敷内で切腹。享年70。
利休の首は一条戻橋で大徳寺山門に飾られた木像に踏ませる形で晒されました。

千利休切腹の理由は諸説あります。
曰く、秀吉と茶道の考え方について対立が生じた為
曰く、秀吉から利休の娘を妾に差し出すよう要求されたものを拒んだ為
曰く、大徳寺(金毛閣)楼門の2階に利休自身を象らせた雪駄履きの像を設置。その下を秀吉に通らせた為

ドラマ「真田丸」では楼門に木像を設置した説が採用されていました。
論法としては、利休の像が飾られた山門を秀吉が通るということは利休の股の下を通ったという事であり、それは秀吉の権威を貶めるものであるというものです。
利休切腹後にその首が木像に踏ませる形を取られたという事実から考えると、大徳寺の2階に設置された利休像の下を通らされた意趣返しであったと考えるのが腑に落ち易いように思えます。

それに加えて茶道の考え方について両者の考えは著しく異なっています。
秀吉は派手好きで黄金の茶室を作らせる華美を求めるもの。
千利休は侘び寂びと言われる物の充足でなく限った中で本質を求めるもの。
両者の求めるものは足し算と引き算の如く真逆である印象を受けます。
且つ利休は秀吉の茶道の顧問のような立場にいるため秀吉が茶道について行動したり何か製作を行うにあたって利休が関わらない訳にはいきません。
繰り返しになりますが両者の茶道の考え方が真逆の両者が茶道についてやり取りを続ければ共にフラストレーションが溜まっていったであろうことは想像に難くありません。
そういった関係性の中で生じた悲劇の行き着いた先が利休切腹だったのではないでしょうか。

現在も大徳寺では利休を偲ぶ利休忌が営まれ続けています。