西郷隆盛像

西郷どん3話「子どもは国の宝」感想①借金は勢い!!

吉之助と熊吉が猪を狩りに出て猪を撃ちます。薩摩藩は侍の割合が高い反面、それ故、侍の多くは百姓同様の貧しい暮らしをしていました。ここで3話にして初めて熊吉がまともな役としてセリフを言っている気がします。自分が猪を仕留めたと言い張るので正直、うざいと思います。

薩摩の人間の4分の1は侍です。これは島津が外様大名である事、中でも島津は幕府から警戒された存在であり、例えば肥後藩に加藤清正が入り次に入ったのは細川忠興と両名共に戦上手で鳴らした面子を揃えているのは徳川が薩摩の島津に反乱を起こされることを考えてのことでしょう。その為、薩摩では徳川泰平の世になっても武力を無くすことが出来なかったという事情があるのではないかと推測します。
西郷家も例外に漏れず11人(吉兵衛が家督を相続した弘化4年(1847)の持ち高は47石で同年の家内門改めでは家内人数は16名となり翌年に2人出て行き14名になり同時に持ち高は41石に減少)の貧しい大家族です。

そんな中で郷中教育は行われており大久保正助(利通)が先生となり「孔子季氏を語る。八佾(はちいつ)を庭に舞わす。是れをしも忍ぶ可くんば、孰れをか忍ぶ可からざらん」と教える中を陽気に歌なんぞを歌いながら仕留めた猪を吉之助と熊吉が運び込みます。

大久保正助が教えるのは孔子の言葉となります。八佾(はちいつ)とは本来であれば天子にしか許されない縦横8列の舞楽を季氏は自分の庭で舞わせた。本来であればと大夫の身である季氏は四佾しか行えないにも関わらず自分の権勢から分不相応な行いをしている李氏を孔子が批判したものです。薩摩の現状で言うならば貧乏人は貧乏人らしく分不相応な高望みをせずに暮らすということを納得させる為にもこういった儒学というのは為政者に取って有効な学問であったのではないだろうかと思うことがあります。勿論、それは儒学の一部分だけを切り取った一面に過ぎない見方ではあるのですが、やがて西郷隆盛は陽明学へと傾いていくのはこの一面に気付いたからというのも理由の一つではないかと思い至ります。

吉之助が自宅に戻ると祖父の龍衛門は嫌な咳をして寝込むようになり三男の信吾まで腹を下して寝込んでいると吉之助は知らされます。これに吉之助は早く医者に診せる様にと言いますが、信吾を医者に診せると龍衛門の薬代が出なくなると言います。それらのやり取りを行っている所に帰って来た吉兵衛は借金をする事に決めたと告げます。
それに対して吉之助は家を売った方が良いと反論しますが吉兵衛は大反対です。両者の喧嘩を止めに入る正助はこの大家族が住む所が無くなると吉兵衛側に付きますが、まぁ確かに11人で広い空を屋根だと思って道に眠れば良いという訳にもいかないかと思うので、流石の正助です。

この当時、医師に診て貰うには多額の資金が必要でした。町医者に掛かると想定します。

診察料、銀10匁~15匁(約1.7万~2.5万)
薬代3日分15匁(約2.5万)

以上が相場だったようなので信吾の場合だと診察料と薬代とで約5万円弱の金額が掛かる事となります。そして龍衛門の薬代が月換算すると約25万円と地味に大きいですね。
また、吉兵衛は40石程度、吉之助は薩摩藩の下士の平均俸禄の5石程度と考えると、一石で取れる米が年間で150キロ程度。米を10キロ5000円と想定すると、吉兵衛が年収300万程度、吉之助が年収37万5千円程度。と考えると、ここから薬代を支払ったら殆ど無くなってしまうので吉兵衛の内職で家族11人を養っていたと考えると・・・。
借金の利子を支払うのは無理なのでは?という素朴な疑問にぶち当たります。

そして吉兵衛は内職先の赤山靱負で御用人として帳簿を付けながら、借金の話をすると赤山が用立てようかと聞いてくれますが、これは帳簿を付けている自分には赤山の家の状況が分かるので借りることは出来ないと断りつつも、現状では吉之助に嫁を貰う事も出来ないと嘆きます。これに赤山は良い親子じゃと言って吉兵衛に予想外の言葉を投げ掛けて慌てさせますが、結局、吉兵衛は借金出来る先を赤山から紹介して貰う事となりました。

吉兵衛は親父としての見栄を張りたかったんでしょうし、これがまた息子のことを考えてというのが良いですね。しかし、赤山は吉兵衛の悩みを聞いて直ぐにどうにかしようと請け負おうとする辺り理想的な雇用主だと思う半面で、それだけ経済的に不味い状況でほいほいと安請け合いしようとしていたけど大丈夫か?と心配にもなります。赤山という人もどうやら苦労性であるようです。
しかし、見ていて思ったのですが、もしかしたら借金というのは勢いでするものなのかもしれません。

西郷どん3話感想つづく。