真田丸感想25話「別離」①利休の死

真田丸

第25話「別離」は淀城から始まります。
ここは茶々の為に秀吉が建てた城になり、それに因んで茶々は淀君と呼ばれるようになっています。
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時は天正19年、秀吉の息子お棄ては鶴松と改名して3歳となりましたが、現在は病に倒れており、今夜が山という状態です。

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三成と吉継、幸村、平野の四名が集まり、鶴松の見舞いに付いての手筈を整えていると平野が鶴松の病の原因が利休の祟りであるという噂が流れていると報告します。
「利休殿があのような最期を遂げられたので、その怨念が・・・」
それを聞いた三成、吉継、幸村の三人は複雑な表情を浮かべます。

ここで利休という人について

千利休は大永2年(1522年)和泉国の堺に生まれました。
幼名は田中与四郎、南宗寺で修業を行い宗易という法名を授かり、他に抛筌斎(ほうせんさい)とも呼ばれていました。
利休という名は居士号という出家せずに家にあって修行を重ねる仏教者へ与えられる呼び名となり、与えられた理由は天正13年(1585年)10月に宮中参内するにあたって町人の身分では入れなかった為に僧籍として入れるよう正親町天皇から与えられたものです。従って利休の名乗りは晩年63歳頃からのもので彼はその生涯に於いての殆どは宗易と名乗り過ごしていました。

利休は堺の商家に生まれ彼自身も商人としての顔を持ちます。ルイス・フロイスは境市民の気質を自著である「日本史」の中で傲慢で気位の高いことは非常なものと語っています。

利休は若くから茶の湯に親しんでいました。
織田信長が堺を直轄地とした際に茶頭として雇われ本能寺の変から以降は秀吉に仕えました。
秀吉からの信任されて聚楽弟に屋敷を構え三千石の禄も得ていました。
そして天正19年2月28日 聚楽屋敷内で切腹。享年70。
利休の首は一条戻橋で大徳寺山門に飾られた木像に踏ませる形で晒されました。

大徳寺では2016年の現在でも利休を偲ぶ利休忌が営まれています。

ここ真田丸で彼が切腹へと至った経緯を追ってみます。
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利休は小田原城攻めの際に幸村が蔵から見つけた利休の刻印の付けられた鉛について三成、吉継、幸村に追及されます。
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幸村の「小田原城の蔵の中には、山ほど積まれておりました」という言葉に利休は「あんさんの話をどれだけ殿下がお信じになりはるか、でんなぁ」と一向に意に介しません。首を取れるものなら取ってみろという事でしょう。

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この件について三人は秀長のもとへと相談に訪れます。
病床の床で秀長は、秀吉が利休のことを信じており三人の言う事を聞く耳は持たないという話を聞き、幸村に蔵の中に利休の刻印の付いた鉛が存在していたことを確認すると「どうやらこれが最後の御奉公になりそうだ」と秀長が秀吉に利休について話をすることを決意します。

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秀長は秀吉のもとを訪れると利休のことについて話します。
利休は茶人であると同時に堺の商人であり、堺衆に利があると見れば敵でも商売をする。従って志を同じにする者と見ると見誤ることになってしまう。
利休は力を持ち過ぎたと警告します。
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しかし秀吉は「一先ず預からせてくれ」と答えを出さずに立ち去ろうとします。
秀長は精一杯の大声で「兄上は、あと何年生きられるお積りですか」と言って引き止めます。
それに秀吉は不愉快そうに「何だいきなり」と振り返り答えます。
「兄上がいなくなっても私がいれば鶴松様をお守りして何とかやっていけるでしょう。気掛かりなのは兄上も私もいなくなった時、誰が鶴松様をお支えしていくか。力のある大名たちが皆で鶴松様をお守りしていく。これしかありません。今後はくれぐれも誰か一人に力が集まるような事があってはなりません」
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そういって秀吉の足元に跪き「鶴松様の為、豊臣家の為」その言葉に秀吉は黙って頷きます。
秀長の言葉は秀吉亡き後に続く次代の政治体制についての示唆も含めた説得であったと思います。
秀吉、秀長の亡き後に突出した力を持つ者がいれば鶴松が傀儡とされる恐れがある。従って権力の集中を避ける施策を取り、一人が暴走しても他の人間が止められるようにするべきであり、現在の利休は秀吉以外に止められる者がなく、それは権力が集中している状態であるという警告でもあったのだと思います。

秀長が言っていた通り、これが最後の奉公となりました。
天正19年1月22日、豊臣秀長は52歳で死去。

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その後、利休の立像が大徳寺山門に飾られていることが発覚します。
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その事実を掴んだ三成と吉継は秀吉に報告します。
論法としては、山門の上に利休の像が飾られており、秀吉が山門を通るということは、その足の下を通っていたという事であり、秀吉の権威を貶めるものであるというものです。
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利休が置かせたのかという秀吉の質問に対して吉継は「全てあの者の仕組んだこと。決して許してはなりませぬ」と答え、秀吉の「どうすれば良い?」という質問に対しては三成が「堺に蟄居させるのがよろしいかと」と提案します。秀吉は「良きようにせよ」とこれを承認します。

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再び三成と吉継、幸村の三名と利休で相対する事となります。
三成は利休に、京からの追放と堺での蟄居を命じます。
利休はご無体とちゃいますかと声を挙げますが、誰も返答をしません。
更に利休は、鶴松の病気の為の献上金を出します。
三成はそれを受け取りますが蟄居の件とは別であると述べます。
それに加えて吉継が「蟄居半月の後に切腹を申しつける」と利休に告げます。
そして幸村が利休を監視する事が決まります。
それらのやり取りを聞いていた利休は献上金を引き取らせて頂くと言って自分の手元に戻します。
「世の中を動かす事に使うてこその金や、無駄にしたら罰が当たりますさかいに」と言い献上金の入った袋を撫でます。
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利休の蟄居期間は弟子の前田利家や古田織部、細川忠興たちが利休助命の為に奔走しますが、その願いは叶いませんでした。蟄居期間が終わると利休は切腹の為に京の聚楽弟に呼び戻されます。利休の弟子たちが利休奪還の動きを取る恐れがあった為その周囲は上杉景勝の兵三千人が取り囲みました。

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利休は監視の為にいる幸村に茶を点てます。
幸村は北条の一件が未だに信じられないと言い、利休は自分が商人の町に生まれ金が世を動かす。そして戦は儲かるのだと答えます。「しかし、人の心、命を金で操るは業の深~い事や、それ故わては茶をたてる。ここまで茶の道を究める事が出来たのはそれだけわての方が深~い故」そう言うと幸村に茶を出し、幸村はそのまま茶碗を持ち上げ、それを二口で飲み干すと茶碗を返します。
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最後に幸村は大徳寺の像を拵えた理由を聞きます。
利休は「あれで、あし掬われましたなぁ。一言で言えば、定めやぁ」と言い、幸村が「定め」と聞き返すと利休はフッフッフッフと口を閉じて笑い、やがて口が開きホッホッホッホッと笑うのでした。
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そして利休は切腹します。

後に幸村は大蔵卿局から、あの像は利休が茶々に請われて作ったが茶々の想定していたものよりも大きかった為に受け取りを断られ大徳寺に預けていたものであったことを知らされるのでした。

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