真田丸感想26話「瓜売」①秀次の関白就任

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前回は秀吉の跡継ぎであった鶴松が僅か三歳という幼さで病没しました。
秀吉は鶴松の死によるショックから立ち直ることが出来ていません。

冒頭は寧々が秀吉に「隠居されやあすの?」と問い掛け、秀吉は俯いたまま何も答えません。
三成が代わりに「殿下は太閤におなり遊ばされます」と答えます。自分の子供に関白を譲った者は太閤と呼ばれるしきたりとなっており、秀吉は秀次を養子として関白の座を譲る事で太閤となります。

しかし秀吉には覇気がなく幸村に「新しい関白に仕えろ」と言い、幸村の「私は今しばらく殿下にお仕えしとうございます」という言葉に「嬉しいことを言うてくれるなぁ」と喜び涙ぐむ始末です。まるで年を取って気弱になったおじいちゃんです。

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天正19年12月豊臣秀次は関白となり、以後は聚楽弟を主にして政務を執り行います。

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そして茶々もまた鶴松の死から立ち直ることが出来ていません。
秀吉と茶々は同じ傷を負い、互いに寄り添います。
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一方で関白となって秀次はきりを相手に、
「関白というのは疲れる。今日も朝から公家衆が朝から引きも切らずに挨拶に見える。まったく体がいくつあっても足りぬは、あっはっはっは・・・」等と喜びながら愚痴っています。

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「退屈か?」と聞く秀次にきりは「殿下はいつもご自分のお話しかなさいませぬ。私はお聞きしているだけ、まぁよろしいのでございますが」と両者の立場を感じさせぬ回答をします。
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秀次は「これは良い事を言うてくれた。これからは人の意見にも耳を傾けねばならぬな」とこれまた地位を感じさせないことを言います。

そんな能天気なバカボンにも見える秀次なのですが人質から大名へ成り上がるという苦労人の側面を持っています。

実は苦労人の秀次

永禄11年(1568年)秀吉の同母姉とも(瑞竜院日秀)と弥助(三好吉房)夫婦の長男として尾張知多郡大高村で生まれる。

元亀3年(1572年)秀吉が小谷城攻めの際に支城である宮部城主である宮部継潤を降伏させる為に継潤の安全を保証する人質として秀次は送られる。
後に継潤は秀吉の与力となった為、部下に人質を預ける意味がないので人質ではなくなる。
この時、秀次6歳。

天正3年(1575年)信長と対立していた三好康長が信長に降った後、信長の部下である秀吉との連携を深める為に秀次は康長の養子となる。
天正11年頃、本能寺の変後に康長が行方不明となり残った康長の家臣団を秀次が率いることとなり河内北山2万石の大名となる。

統治者としての秀次は善政を敷いたと言われており、天正14年(1586年)には領内で起きた渇水に伴って生じた村々での争いに対して、関係者が納得のいく裁定を下すことで収め、その功績から秀次を象った「水争い裁きの像」を建立される。
他にも悪政を敷いた代官を成敗したりといった逸話が残る。

男と女という違いはあれども、ある意味で謙虚とも言えるこういった態度を取れるのは人質として過ごした頃の苦労があるからなのかもしれません。案外に秀吉の人懐っこさや気配りのような明るい部分を誰よりも色濃く受け継いでいるのはこの秀次という人なのかもしれませんね。

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そんなやりとりをしていると秀次はきりを連れだして自分の側室たちに会わせます。
凄い人数です。
その後に中庭に移動するときりに側室を引きあわせた理由を「私の全てを知って欲しかったのだ」と説明します。
「この前の話だが」と以前きりに側室になることを求めた返事をきりに求めます。
「もう少しお待ち頂いてもよろしゅうございますか、里の父にも一応つたえてから改めてお返事を」と満更でもない様子のきりです。

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きりを側室にゲットだぜ!!

まぁ確かになぁ。秀次はバカ殿然としながらも、あれだけ真っ直ぐアプローチを続ければ女も嫌な気持ちにはならないでしょうし、しかも相手は関白殿下様ですからね。

しかし秀次は女好きだとは思っていましたが、側室をあれだけ抱えているとなると相当なものです。
実際、関白就任にあたって秀吉から5か条の訓戒状を秀次に渡しています。前の4条は一般的な心構え、最後の一条は

「茶の湯、鷹野の鷹、女狂いに好き候事、秀吉まねあるまじき事、ただし、茶の湯は慰みにて候条、さいさい茶の湯をいたし、人を呼び候事はくるしからず候、又鷹はとりたか、 うつらたか、あいあいにしかるべく候、使い女の事は屋敷の内に置き、五人なりとも十人なりともくるしからず候、外にて猥れかましく女狂い、鷹野の鷹、茶の 湯にて秀吉ごとくにいたらぬもののかた一切まかり出候儀、無用たるべき事」
wikipedia

要は秀吉から俺のようにやるなよ、と女好きも程々にと窘められていたりもします。
こんな感じで秀次が我が世の春を謳歌している頃。

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明、朝鮮の大王に儂はなる!

秀吉は「海を渡って明国を攻め下す。唐入りじゃ」と秀吉は三成と幸村に言います。
もはや鶴松の死に打ちひしがれた様子は微塵もありません。
幸村に「ご隠居なるのでは?」と言われると駆け寄り「誰がそんなことを言うた。朝鮮と明を従えて儂は大王になるぞ~」と嬉々と語り掛けるのでした。

この事を後で聞いた吉継は幸村に「殿下は鶴松様を亡くされておかしくなってしまわれたのではないか」と言いますが秀吉の考えを伝えます。

秀吉が太平の為に明を討たなくてはならないと考える理由
・人には仕事を与えなければならない
・人は仕事がなければ碌なことを考えない
・明に攻め入ることは武士の大仕事である
・武士に仕事があれば泰平を覆そうと考える者がいなくなる

天下統一が為されたことで仕事の無くなった武士に役割を与えることで平和をより強固なものにするという目的が裏にあるようです。

秀吉が関白の位を秀次に譲ったのは国内統治を任せ、自分は 唐入りに専念するという思惑もあったでしょう。また、秀吉は秀次に対して「御法度」等の守るべき決まりを定めており太閤になった後も権力は保持したままです。
しかし秀次に関して調べて思いましたが、小牧・長久手の失敗を除けば功績を残し続ける文武両道の人物なので期待に応えられる人物であったように思えます。

こうして天下統一を果たした秀吉は朝鮮征伐に、いよいよ本格的に乗り出す事となりました。

続きます。

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