真田丸感想38話「昌幸」④秀頼と家康の会見


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前回は家康に昌幸の赦免を再三に渡って願い出るも全て却下されてしまいました。

慶長十一年(1606)七月、大阪城
成長した秀頼は大掛かりな鷹狩りを催します。この時の官位は右大臣。
清正を引き連れて出発します。
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秀頼の養育係は大蔵卿局が務めていたようです。他に乳母の一人は宮内卿局という人物が務めたと言われています。
宮内卿局は秀次事件で切腹させられた木村重滋の妻であり、同じく切腹させられた木村重武の母です。秀次は秀頼が生まれたことによる秀吉の跡継ぎ問題から生じた事件であり、それによって夫と息子を失った者が原因となった秀頼の乳母役を務めるというのは不思議な話だと思います。
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本多忠勝は縁側で孫二人に挟まれて竹とんぼを作る為に竹を削ります。
竹とんぼを完成させた忠勝は「ほれ、出来たぞ百助」そう言って渡すと百助は天高く竹とんぼを飛ばします。それを見て愉快そうに笑う忠勝は仙千代の肩を抱きますが、仙千代の浮かない顔を見ると「分かっておる、分かっておる」そう言うと次は仙千代の為に竹を削り始めます。「例え稲の子でなくとも儂の孫に変わりはない」と言い、笑いながら削っていると指を誤って切ってしまいます。
この出来事によって忠勝は隠居を決意します。
忠勝は隠居の理由を聞かれて答えました。「某、一度たりとも手傷を負うた事がないのが自慢でございました。本多平八郎一生の不覚」それを自分の衰えと捉えた事と既に世が泰平の世に向う中で自分の出番は終わったと考えたようです。
隠居を慰留する家康には戦いがあれば名槍蜻蛉切を抱えて駈け付けると約束すると家督を嫡男の忠正に譲り桑名で隠居生活を送る事となります。
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その晩年は、かつての豊臣家がそうであったように徳川家も本多正純のような吏僚派が台頭してきており、忠勝は病を得るようになっていた事もあり晩年は不遇であったとも言われています。
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しかし遺書の一節には「侍は首を取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討ち死にを遂げ、忠節を守るを指して侍という」と書き残します。
辞世の句では「死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば 」と残しており家康への忠心が揺らぐことはありませんでした。
慶長十五年十月十八日(1610年)没。享年六十三歳。
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慶長十六年(1611)正月、大阪の真田屋敷。
昌幸の斜面を願う為に昌幸は寧々の力を借りる事を考えますが、寧々は出家して京に住んでおり今は帝や徳川の使者以外とは会っていない事を知ります。
しかし、寧々の下で侍女達の指南役を務めていた者が同じく京に住んでいることを知った信之は、その者に会いに行くことにします。

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その女性は、書を嗜み和歌にも通じる一流の文化人と知られた小野お通でした。
後に信之の側室となる女性との出会いでした。
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大阪城では、清正が且元に家康と会ってきてくれと頼みます。
清正は秀頼の成長した姿を見れば家康も一目置く事となり、豊臣家の扱いも変わると考えている事を話します。且元もこれに同意すると家康に会いに行くことを承諾します。

家康が一目を置いて豊臣の扱いも変わるという部分についてですが、関が原の戦いによる影響が出ています。表向きは三成の反乱となっている戦いである為、戦に勝った家康を秀頼は形式上では労っています。しかし家康は五大老筆頭の立場を使って戦後処理に於いて豊臣の直轄領の多くを勝手に分配してしまった為に220万石から65万石程度とその領地を大きく減らされています(分配された後もある程度の収入は得られていたようですが)
朝廷からは秀吉の頃と同程度の礼遇は受けていたようですが、他の大名への影響力等は家康に大きく水をあけられている状態となっています。
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駿府の駿河城で且元の訪問を受けた家康は、自分が建て直した二条城に秀頼を呼ぶ事で、豊臣が徳川の臣下に降ったと思わせることが出来ると考え秀頼と会う事にします。
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且元は家康が秀頼と二条城で会うことに同意したことを伝えます。
清正は「そもそも徳川は豊臣の家臣ではないか。向こうから来るのが道理」と言います。しかし秀頼は「向こうは駿府からわざわざ駿府から参るのだ。出向いてやろうではないか、どんな形であれ大事なのは私と家康が会う事」と言います。
且元は更に対面は家康と秀頼の二人きりであるという条件を後出しします。これを聞いた清正は会見に反対しますが、秀頼は「差し向かいで話したいならそうすれば良い。それを怖がる私ではないぞ」と会見を望みます。
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慶長十六年四月八日、二条城
家康は秀頼と二条城で会見します。
秀頼と共に家康の待つ会見の場へと向う清正は三成のことを思い出します。
以前、三成が蟄居を言い渡された際に耳打ちされたことを思い出します。
内容は豊臣家を託すので命に代えても秀頼を守れというものでした。
途中で正信に立入りを遠慮するように求められますが清正は家康の警護の為に向っていると伝えると押しのけて強引に同行します。
秀頼は家康と会見を果たします。
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会見後に家康は正信に「あれは本当に太閤の子か」と聞くと、見ていた正信も「なかなかの若武者ぶりでございましたな」と答えます。
家康は「いかんのう・・・」と悩みますが、仕方あるまいと決心します。正信はこれを受けて「豊臣家もつくづく運がない。秀頼公が凡庸な二代目であればしぶとく生き延びられたものを」と同意します。
そして家康は「その前にあの髭面じゃ」と秀頼の傍に付く清正をどうにかする必要があると考えると正信は服部半蔵の二代目による暗殺を提案します。
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清正は服部半蔵の手により毒串を首に刺され、肥後へ戻る船の中で発病して二ヵ月後に死亡しました。

秀頼は身長は六尺五寸(195cm)の当時としても並外れた長身であったと言われており、武将としての威厳を持っていたと言われています。
また秀頼の伝記「豊内記」では、秀頼は礼義を重んじて民を哀れみ国家が豊かになるように祈り続けた。といったような事が書かれており、どうやら人の上に立つことを宿命として受け入れ、それに相応しい人物で有ろうとした人物であったようです。
これが家康を恐れさせ豊臣を滅亡へと導くことになるのは歴史の皮肉であると感じます。

真田丸感想38話「昌幸」感想つづく
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