大坂夏の陣から後の千姫について

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大坂夏の陣で豊臣方の命乞いのために城から抜け出した千姫ですが肝心の徳川家康本陣の場所が分かりません。

一方で家康と秀忠も千姫を探しています。家康は燃え盛る大坂城を見て兵士を奮起させるため千姫を助け出した者には千姫を与えるとまで言って救出の為に手を尽くしたといいます。
しかしながら千姫達はいち早く大坂城から抜け出して家康の元へと向っており、千姫を探す者達と入れ違ってしまっていたのは皮肉とも言えます。
千姫一行もやがて周囲に増え続ける徳川方の兵士達の多さに隠れて家康本陣へと現われることを諦めると近くに布陣していた坂崎直盛の陣へと投降して家康へ面談出来るよう頼む事にしました。
勝ち戦となったことを知った兵士達の中には略奪に勤しむ輩も多かったと言います。その為に兵士に捕まった者には有名人の名を騙ることで助かろうとする者も多くいました。なにせ兵士達に捕まると男は兵士として首を刎ねて手柄とされ、女性は奴隷として売り飛ばされてしまうというご時世です。それに比べれば名を騙って投獄される位なら御の字と言えるでしょう。その為に千姫の名を騙る者も少なからず存在していたのか始めは千姫を騙った偽者と思われて信用されませんでしたが千姫の着物に縫い込まれた葵の紋からようやく本人であることが証明出来たと言います。

千姫は無事に家康と秀忠の二人の前に立つ事が出来ました。
家康は孫娘の無事を喜び、秀忠も同様に喜びます。

しかし千姫による秀頼の助命嘆願は受け入れられることはありませんでした。

千姫を徳川の陣まで案内した二人の武将、堀内氏久は下総国に五百石を与えられて秀忠の配下となり共に豊臣方として参戦していた兄の堀内行朝と共に命を助けられ、南部左門は大坂の役後に南武家から豊臣方に与した左門を処刑して欲しいという要望を出されましたが秀忠が忠義者で有る故それは不要であると拒否すると言ったように二人はかなりの厚遇を受けたことから考えると家康と秀忠の千姫を助けたいという気持ちは相当に強かったようです。

そこで気になるのが家康の千姫を助け出した者に姫を与えるという約束です。結果的に坂崎直盛は千姫を家康に送り届けた訳ですが、たまたま送り届けられたという見方も出来ます。
(坂崎直盛が大坂城から千姫を救い出したという説もありますが、ここでは千姫が自ら投降して来たという説を取ります)
千姫はその美貌を謳われるお市の方の面影を強く受け継いでいたと言います。その上で天下を取った徳川家と縁戚になれるというメリットもあるのですから千姫を迎えたいという家は数多くあります。
そういった状況の中だったので坂崎直盛に対して千姫の次の嫁ぎ先に対して影響力を持たせる事を褒美とする。
詰まりは千姫を嫁に迎えるとなれば必然的に相手は名家となります。その名家と千姫との間を取り持つことは相手に対して大きな恩を売る事が出来ます。更に家康は大坂の役の後に元々の石高三万に加増して四万三千四百六十八石としています。
坂崎直盛は千姫の次の嫁ぎ先として公家を周旋しようとするのですが、家康は相手に満足できなかったのか、それとも忠臣である本多家との関係を強めることの方が徳川家を盤石なものに出来ると考えたのか、千姫と本多忠刻との縁組みが決まってしまいます。この縁談は眉目秀麗と言われる本多忠刻に千姫が一目惚れしたという説もあるのですが、何れにせよ美男美女で似合いの夫婦が成立します。もしも千姫の希望を家康が許したのであれば、自分が天下を平定したことで婚礼も政治ではなく自由意志が許されるようになったことを示すのも一興と考えたと想像するなら粋な計らいようにも思えます。因みに本多忠刻の父は本多忠政となり、その妻は家康の切腹した長男、松平信康の娘である熊姫でした。

これに坂崎直盛は面子を潰されたと激怒。千姫を強奪しようと画策しますが、これは幕府が事前に掴んでおり、坂崎家を幕府軍が包囲することで坂崎は命を落とす事となり、これで坂崎氏は断絶。
(これには配下に首を切られたとする説と切腹したという説があります)

残念ながら二人の婚礼の日を待たずに家康は世を去りますが夫婦となった二人は姫路城で仲睦まじく暮らしたと言います。千姫は領民からは「播磨姫君」と呼ばれ敬愛され二十二歳の年に初めての子である本多勝姫が誕生。翌年には長男、幸千代も生まれますが残念ながら三歳で急逝。寛永三年になると本多忠刻は三十一歳の年に結核の為に世を去ります。それは奇しくも大坂城が落城した日と同じ五月七日の出来事でした。更に同年八月に姑である熊姫(妙高院)九月には母であるお江(崇源院)と千姫を支えた人々が続けて世を去ります。

その後、千姫は天樹院と号すると今の地下鉄竹橋駅近く江戸城付近の竹橋御殿に娘の勝姫と共に移り住むと二人の夫の菩提を弔って暮らします。やがて寛永五年に勝姫が十一歳の年に鳥取藩藩主(後に岡山藩藩主)である池田光政に嫁ぎますが、千姫は嫁いだ勝姫を心配して「天樹院書状」と呼ばれる手紙を複数送ります。これを知った徳川家光は参勤交代でやって来た光政と千姫を引き合わせました。池田光政は徳川光圀、保科正之と並んで学問好きな三名君と称される人なので実際に面談することで千姫は安心することが出来たようです。また、この後も千姫と光政は交流を続ける事となりました。

寛永九年(1632)一月二十四日 父である徳川秀忠が死去。
寛永十年(1633) 伯母であり浅井三姉妹と呼ばれたお初(常高院)が死去。

正保元年(1644)五月二十四日 後の徳川七代将軍となる徳川綱重が誕生。綱重の生母は家光の側室であるお夏の方(順性院)ですが、家光が四十二歳の厄年の出産となる為に災いが降り掛かるのを避けようと千姫の住む竹橋御殿にお夏の方(順性院)を移すと、そこで綱重が生まれました。その後も千姫が綱重を養育する事となり大奥で大きな権力を得る事にもなりました。

承応三年(1654) 娘の勝姫が嫁いだ岡山にて藩が始まって以来の大災害と呼ばれる大洪水が発生。続けて大飢饉が発生し三千六百八十四名もの死者が出ました。池田光政はこれの復旧に努めますが如何せん復興に伴う資金難だけはどうにもならず幕府に借財を申し込むも聞き届けられず追い詰められた状態となりますが、これを聞いた千姫は自らも幕府に働き掛けて四万両(現在の価値で四十億円)もの資金を送り二十万人もの命を救ったといいます。

明暦三年(1657)一月十八日から一月二十日まで 三日に渡り燃え広がった明暦の大火により竹橋御殿が消失するも後に再び新居を構える。

寛文六年二月六日、七十年の生涯を終える。
墓所は傳通院、天樹院弘経寺、知恩院。

最後に付け足すと、僅か七歳の時に人質同様に秀頼の妻となり、始めはままごとのような夫婦であったのではないかと想像するのですが二人の仲は良いもので当時の女性に於ける成人式である前髪を切り揃える「鬢削」も秀頼が自ら行っています。他にも家康に豊臣の命乞いを行い失敗した後に、秀頼の側室が生んだ国松と天秀尼(奈阿姫とする説もあるが俗名の真偽は不明)は大坂城を脱して京に潜伏していましたが京極忠高に捕縛されます。この二人の助命嘆願を千姫が行います。国松は嫡男であった為に助命は許されませんでしたが、天秀尼については自らの養女として鎌倉にある東慶寺に入れる事でその命を救いました。
当時の千姫の状況として豊臣方に付いた人々は全て処罰の対象となっていたことを踏まえると自分の処遇も決まっていない段階では自身の行き先に陰を落とす可能性のある行動であった筈です。それでも秀頼の子を助けたいとの思いから取った行動であったと考えると秀頼と千姫の間には確かなものが存在していたのではないかと思えます。

長くなりましたが戦国最後のヒロインに相応しく千姫の人生は波瀾万丈と言って差し支えないものでした。しかし、最後を穏やかに迎えたのは本人の人柄によるものも大きかったのではないかと思えます。新しい場所に移っても持ち前の人柄から大事にされる。やがては今までの繋がり等から権力が付いてくるようになるも、やはりその力は自分以外の誰かの為に使われていたように思えました。その為に晩年は所謂フィクサーとしての役割を担うことにもなっていたようにも見受けられます。調べている途中から千姫は倉科遼の「女帝」みたいになっていくなぁ等と思いながら書いていました。

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