小田原攻めでの北条氏の思惑を凌駕する豊臣秀吉

石垣の上にそびえる日本の城 歴史

今回は天正18年(西暦1590年)に豊臣が北条氏を下すにあたって小田原城を攻めた小田原征伐で起きた北条氏政の誤算について書いてみたいと思います。

北条氏政が籠もる小田原城は豊臣方に隙間なく囲まれています。
北条の城を中央として、
北、西:秀吉と秀次の本軍
東:徳川軍
南:長曾我部と久喜の水軍

この包囲網に対して北条氏政は篭城を決断します。

その理由は
・秀吉軍は大軍だが寄せ集めで連携は取れない
・徳川、上杉も秀吉の下で戦う事を良しとしていない
(裏切りの可能性)
・戦が長引けば離反者も出て来る
・伊達政宗が北から援軍にやって来る

以上を想定して籠城戦を決断。城から出て戦うのはこれらの条件が揃った時であると考えを口にします。

北条氏政の考えは秀吉以前であれば可能なものでした。
実際に小田原城が上杉軍に囲まれた時は1ヶ月の間を耐え抜き撤退に追い込んでいます。

ひと月籠城すれば勝てると考えた北条氏政の誤算

当時は行軍の際には各兵士30キロ程度の荷物を担いで参加していました。
荷物は刀や燃料を取る為の鉈や鋸、雨を防ぐ蓑(みの)などをいれると持参できる米は15キロ程度、一日500グラム(1合150グラムなので約3.3合)消費と考えるとひと月程度しか持ちませんでした。

従って当時の篭城はひと月程度を目処にしていました。攻めてる側の食料が尽きるからです。
北条氏政も同様の考えを持っていたのではないかと思います。

他に北条は全ての領民から15~70歳までの者を集めて5万人の人員を確保して、加えて90以上にも及ぶ支城を整備して強固な防衛網を整備。おまけに秀吉側が兵糧として使えいないように田畑を焼き払ってもいます。

こういった計画を立てて実行できる人間が多い筈はないので、それらを遂行することの出来た北条氏政は決して無能な人間ではありませんでした。

北条氏政の勝算を崩した体制

ここでの誤算は秀吉が大量の兵士を動員するシステムを完成させていた事だろうと思います。
中でも特に次の項目が特筆できると思います。
・ 集める事
・ 届ける事

集める
特に太閤検地と刀狩りの効果が大きかったと思います。

太閤検地:正確な年貢の徴収が出来るので軍の兵糧調達も計画的に行える
刀狩り:農民から武器を取り上げる事で農民と武士が区別されたことで農民は農業に専念する事で収穫量が上がり、武士は戦に専念できるようになった。

この二つが行われたことで、兵糧の確保と兵力の確保が計画的に行えるようになりました。
以前は自前の武器を持つ農民を動員していたので田植えや刈り入れの時期には帰らなくてはならなかったのが戦い続ける事が出来るようになりました。
(以前の部隊は集落を押さえる地主(豪族)が集落の若い衆を連れて来たりして編成されていた)

他にも、この戦にあたって兵糧を集める為に兵糧奉行を用意
これが20万石の米を用意しました
(今回の戦が10か月以上継続できる量であり、検地による増収がこれを可能にした)

届ける事
集めた兵糧を水軍に護衛させた船で輸送
陸に着いてからは長束正家などの主計将校が帳簿付けを行い分配計画を立てる
それを輸送部隊である荷駄者が輸送する。

これらが20万を超える軍勢に万全な補給を行っていました。
各大名は軍隊を連れて行けば良いという体制を整えることで秀吉は本来であれば寄せ集めであった者達を軍隊にする事が出来ました。

北条氏政の大誤算
秀吉軍は一か月すれば兵糧の不足から離反者が出て来て弱体化する。
そこに奥羽から伊達が援軍として加わる事で勝ち戦ないしは秀吉軍を撤退させる事が出来るという考えを持っていました。
しかし、その前提条件である兵糧不足を解消する体制を秀吉は整えていた。
これが北条氏政の誤算だったのだろうと思うのです。

※城の画像は小田原城で使える画像が手に入らなかったので姫路城のものを使用させて貰っています。

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