黒船を迎える日本の混乱

久里浜海岸 幕末

それでは今回はペリー率いるアメリカからの黒船来航を受けた日本側の混乱を書きたいと思います。

そもそもペリーは日本に対してアメリカとの国交を結ぶこと、その手始めとして国書を日本に渡すことを主目的として来航して来ます。そして日本側は国書の受け取りを拒否したいというのが本音です。
なぜなら日本側が国書を受け取ればアメリカに返事を出さなければなりません。国書の内容は国交の開始を求めるものであり、その要求を受け入れれば日本の鎖国が崩れます。ですがペリーは大砲を打ち鳴らしながらやって来ている訳ですから国書の受け取りを拒否すれば米国との戦争となる可能性が出て来ます。米国との戦争を行うとなれば日本に思い浮かぶのは清国と英国によるアヘン戦争です。これに清国は英国側に為す術も無く敗北しています。その二の舞だけは何が何でも避けなければならない為、ペリーへの対応は慎重にならざるを得ないものとなります。
(実はペリーは戦争開始を禁じられて日本にやって来ているのですが、そうであるにも関わらず日本に対して武威を示すことで状況を進めようと考えたり、アメリカから日本へ7ヵ月半程度の時間を掛けて来ているにも関わらず未だに開かれていない太平洋航路なら20日で援軍を連れて来れるというはったりをかましているあたりペリーという人は交渉者としても中々に手強い相手であることが窺えます)

実は黒船の来航を知っていた日本

日本は黒船が来る正確な日時までは知らずとも、そう遠くない未来に日本へ訪れることを知っていました。
その情報はオランダの商館長ドンケル・クルチウスが長崎奉行に1852年4月7日付けで長崎奉行へ提出した「当子年阿蘭陀別段風説書(とうねのとしおらんだふうせつがき)」によって齎されました。ペリーの来航が1853年6月3日なので、その一年以上前の時期になります。
そこにはアメリカが日本との通商を望んでおり、その為に下記3点を希望しているといったことが書かれていました。
・日本人漂流民の送還
・日本にある港の開港
・石炭貯蔵場の確保
この情報に当時の老中首座の座にあった阿部正弘は慌てた筈です。アメリカからの要望を受け入れれば鎖国が崩れますし、それは幕府の支配体制が崩れる可能性すらあります。かと言ってこれを拒めばアヘン戦争の二の舞になる可能性があり、これも幕府を崩壊させる可能性がある。
阿部正弘は先ず風説書を溜間(将軍の奥に一番近い臣下に与えられる最高の席)に詰める主な譜代大名達に極秘情報として風説書を送り情報共有します。
また、アメリカからの来航時期については風説書に書かれていませんでしたがオランダの船が季節風の関係から夏に入港して秋には出港する事、当年の夏は既に過ぎている事から翌年の夏頃にアメリカの来航があると予想していました。

島津斉彬への相談

譜代大名達とアメリカからの来航について協議を重ねていたようですが、明確な方針を決めることが出来ません。
そこで阿部正弘は島津斉彬へと口頭で相談を持ち掛けたようです。
これは1852年12月12日の斉彬から家老の久寶に出した手紙の中に「阿部正弘を訪問した際にアメリカのことを聞いた。アメリカのことをオランダの商館長より聞いていて心配している様子で、いまだに評議が定まっていない。近いうちに再び話を聞くことになるであろう」といったことを書き送っています。
アメリカからの来航については当時、幕府の中でも極秘扱いとされていたのですが、書面の内容から推測して口頭で阿部正弘から島津斉彬はアメリカ来航のことを聞いていたようです。
阿部正弘が斉彬に極秘情報を漏らした理由は薩摩が琉球を支配していることから外国の情報にも詳しいと見ていたからのようです。
一方で斉彬は得た情報を元に家老に下記のようなことを書き送ります。
・ アメリカが来航するなら品川沖
・ 高輪、田町、芝は混乱する
・ 近くの山の手にある屋敷を避難所に購入したい

取得した情報から起こることを予測して先手を打って指示している斉彬の強かさが伝わってきます。時々、斉彬について調べていると、この男はもしかしたら未来からやって来たのか?と思うことがあるのですが、こういった姿を見ると並外れた情報網は幕府の極秘情報だけではなく海外の情報にまで及んでいたようなので斉彬という人は膨大な情報を正確に理解して実行に移すことが出来る人であった為に、その施策が並外れたものに見えるのかもしれない等と思います。

極秘過ぎた情報

アメリカが来航するという情報は幕府内部でも極秘情報として扱われ、現場でも奉行レベルまでにしか伝わることは無く、結果として黒船来航のために浦賀沖で一番初めに現場で対応する人間もアメリカ来航のことを知らなかった為に混乱を生んだようで、与力の中島三郎助や香山栄左衛門等が奉行に何故しらせなかったのかと詰め寄る事態も起きたようです。
この点を見ていると正にお役所仕事だなぁと感じます。事の重大さを考えればせめて現場の人間にはアメリカ来航の情報は伝えるべきであるし、その情報に基づいて準備も行うべきです。これは奉行に対して情報を与えるだけで準備に伴う権限委譲、それか権限のある人間の派遣を幕府の上層部は行えていなかったという事です。詰まりはアメリカからの来航についての情報は日本の中である程度は行き渡っていたが具体的な準備は出来ていなかった証左に他なりません。

そして、オランダから齎された風説書の情報源はアメリカの新聞報道であったようなので何とも締まらないお話となります。

そんな状況下で日本はペリーの率いる黒船の来航を予想よりもやや早い1853年7月8日(嘉永6年6月3日)に受ける事となりました。

それでは今回この辺で

黒船(サスケハナ)

published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association)