黒船(サスケハナ)

ペリーが来航した背景

幕末を調べると思うのですが、幕末の始まりというのは黒船の来航によって幕府の力が弱体化していることが周囲に知れ渡ったことから始まっているように思えます。詰まる所、幕末というのは建前上は朝廷(天皇)が日本という国を治めているとなっていますが実際の統治は幕府が行っているという二重構造となっており、そこに開国を拒否する朝廷側を梃子とすることで維新を目指す人々が倒幕を成し遂げたという見方が出来ると思っています。それらの全ての始まりというのはペリー率いる黒船来航から始まっているように思えたので黒船来航の背景について調べてみました。

アメリカが日本に来た事情

始まりは1807年(文化4年)ハドソン川で蒸気機関を備えた汽船の試運転が行われ成功した事に始まると思います。ここから蒸気船の時代が始まります。
そして1844(弘化元年)アメリカと清が米清通商条約を結び市場開拓に成功します。ここで清を開国させたのだから近くにある日本を市場として開拓する事と併せて太平洋全域において捕鯨活動を行っていた船の補給地としても日本の開国を望むようになります。

試しにやって来る

そこで1846年7月(弘化3年閏5月)アメリカからビッドルが日本の浦賀沖に軍艦2隻で来航。これは日本に通商条約を結ぶつもりがあるのか調査の為に来たので、日本では大騒ぎになりましたがアメリカは元々の目的が調査、日本の意思確認がメインであったのでビッドルは日本から開国する積もりはないという返答を受けて意外とあっさりアメリカに帰国します。ついでに言うとビッドルは帰国した後に日本への対応が生温いと批判されているので時に人が不条理な目に遭うのは昔も今も変わらないようです。

アメリカが求めたもの

個人的には清国と外交を行っているのだから、日本なんか放って置けば良いのに等と思ってしまうのですが、当時のアメリカはイギリスと競争状態にあり、この競争に勝つために太平洋横断航路の開拓は重要な課題でした。加えて捕鯨船が更に石炭を補給する寄港地が必要とされており、そういったアメリカの課題を解決する条件を満たしていたのが日本した。幕府からすると全くもって迷惑な話です。

アメリカの世論の形成

1846(弘化3)年に北海道でアメリカ捕鯨船ローレン号の7名が択捉島に漂着し松前藩に救助されて翌年6月に長崎に護送されます。移送された後に件の7名はオランダ船に引き渡されアメリカに帰国しますが、その中の一名ジョージ・ハウが日本で虐待を受けたと報告します。これにアメリカでは日本問責の世論が沸きます。また、同時に難破などによって日本に漂着した船員の保護をどうするべきなのかという課題が持ち上がります。

次に1848年(嘉永元年)6月7日捕鯨船ラゴタ号から脱走した15名の船員が再び松前に漂着して長崎に送られます。この15名は嘉永2年にアメリカ軍艦ブレバル(艦長グリン)に引き取られて帰国します。しかし遭難者15名の内の2名が解放前の拘置中に死亡。更にラゴダ号の船員は粗暴な者が多かったようで始めは座敷牢に入れられるのですが、ここから3、4名の脱走が起きた為に牢屋に入れざるを得なかったと日本側の記録に残されています。前述のジョージ・ハウが虐待を受けたとする報告がされたのも、こういった遭難者への処遇が虐待と受け取られたのかもしれないとも思います。個人的には言葉も分からん外人が彷徨っても食うに困って略奪行為に走るのがオチなので身柄を押さえるのは、治安維持の点から見てある程度は致し方ないとも思いますし、そもそも脱走者が出るほど人をこき使う国が虐待がどうこう言えるの?とも思うのですが、大抵の人間というのは他人の姿は見えても自分の姿は見えないというのが世の常なので仕方ありません。
そして遭難者を連れて帰国したグリン艦長は日本には使用できる港が多く石炭も供給が十分に受けられると報告。併せて平和的に米日通商条約が締結出来ないなら武力行使も辞すべきではないと訴えました。

こういった経緯からアメリカでは今後も出るであろう漂着する自国民の為にも野蛮な日本に対して武力行使も辞すべきではないとう考えもあったようなのですが、しかし遭難者をグリンが引き取る事が出来た事から先ずは米国と日本とで適切な条約さえ結べれば武力行使にまでは至らずとも良いという考えとなったようです。

断りたくても断れない

アメリカは前述の通りの背景を背にして日本に交渉して来ますので、当然の如く威圧的に開国を迫って来たと思います。しかし当時の日本は鎖国を破りたくないというのが本心です。ですが、アメリカの開国要求を突っぱねると次は戦争になりかねないと考えた場合、当時の日本にアメリカの武力に対抗出来る力はない。従って幕府はアメリカの要求を呑まざるを得ないという判断に傾かざるを得なかったのだと思います。
両国の関係は現代で例えるなら、明らかに自社よりも優れた製品を持つ海外企業の強引で強面なやり手部長が、今後は自分達の下請けに入るように関係を迫っている状態といった所でしょうか。

日本を恐れさせれたアヘン戦争

アヘン戦争自体は英国が清国に対してアヘンを売り込む事によって利益を得てきたことに起因しています。普通に考えれば国民を廃人にするアヘンの販売など断じて許される筈がありません。この戦争は清国から英国に対して仕掛けたものですが当然の行為です。正義は清にあります。
しかし悲しい哉、最強の呼び声高い英国の最新式の軍備に対して旧式装備の清国は10倍以上の兵数で対抗しようとしましたが、これに清国は敗北します。

両国の兵数
英国側:19000人
清国側:200000人

両国の戦死者数
英国側:69人
清国側:18000~20000人

両国の勝敗を分けたのは大きな要因は軍艦の性能差にあったと思います。戦いの当初、英国は海軍の最下等である6等艦の戦艦2隻が駆けつけたことで反撃に転じるのですが、この時の戦艦はフリゲート艦と呼ばれるもので戦艦というよりかは護衛や哨戒などのサポートを行うことを主目的とした艦船です。しかし清国船団はこの英国の2隻の船すら沈めることが出来ませんでした。

この結果は幕府も知る事となります。当時の東アジアに於いて支配的位置に立っていた強国である筈の清国が英国に為す術もないと言って良い程に敗北させられているという事実は幕府を驚かせ、それまで日本は異国の船を見たら撃退しろという異国船打ち払い令を撤回する程に海外政策見直させる事となりました。

英国は米国と競う強国です。そして日本は清と同じか寧ろそれ以下の軍備しか持ちません。つまり日本は米国と武力衝突が起きた場合には清と同じく為す術もなく敗北する公算が高い状態でした。

ペリーが選ばれる

そんな中、アメリカが日本に開国を迫る使者として選んだのは東インド艦隊10代目司令長官マシュー・ペリーでした。
そしてペリーは日本に対して堂々たる艦隊を率いて威圧する必要があると主張。それに対して米国海軍省は最低でも10隻、場合によっては12隻の軍艦を用意することを約束します。

はっきり言って当時のペリーからすれば日本人という未開の野蛮人は武力で脅しつけて言うことを聞かせれば良いという感覚だったのではないかと想像します。

アメリカ議会がペリーに戦闘による支配を指示しなかったのは未開の野蛮人達を支配することが出来たとしても大平洋を越えて軍艦と兵士を送り自国から統治する為の人材を送るといった投下資本を行うだけのだけの価値が日本にはない。寧ろ、日本と戦争になった場合にイギリスが中立を宣言を行うことで国際法によってイギリスの支配するアジア諸港からアメリカが補給を受けられなくなることの方が独自の補給線を持たないアメリカにとって大きな問題でした。そう考えるとアメリカが日本に対して第一に求めたものは自国の船に補給を行ってくれる態勢を整えることだったのだろうと思えます。恐らくはそれらの理由からペリーは大統領から日本への「発砲厳禁令」を背負い日本へとやって来る事となったのでした。

それでは