徳川家康は貿易推進派

三つの水晶 幕末

これから暫くの間は鎖国について書いて行く予定です。今回は鎖国というものが徳川家康が制定した祖法のような扱いを受ける例が多かったと思うのですが、意外にも家康自身は貿易推進派の人であったことが分かりました。

鎖国は日本が言い出したものではない

鎖国のことを調べてみて先ず意外だったのは幕府が鎖国令として法令を出した事実は無く鎖国という言葉を使ったことも無いことです。鎖国という言葉自体は綱吉の時代に来日したドイツ人のエンゲルベルト・ケンペルが日本からの帰国後に「日本誌」を書き上げたものを翻訳した志筑忠雄が「鎖国論」と名付けたものが始まりです。
うーん、意外です。

てっきり徳川家康が天下も取ったし残りは大阪夏の陣でも人を出して手こずらせてくれたキリスト教徒共をどうにかすれば一向一揆のように手痛い目に遭うこともなくなるだろう。そしてキリスト教を布教する宣教師共は外国の船と共にやって来るから、外国の船ごと日本に入って来れないようにすれば良い位の考え方で鎖国が決まったのかと思っていたのですが、これもどうやら思い違いのようで、家康本人は貿易推奨派であったようなのです。

家康は海外からどう見られていたか

家康の前の日本の統治者は豊臣秀吉でした。
秀吉はフィリピンや高山国(現在の台湾)に対しては服属を求め、フィリピンに対しては降伏しなければ戦争を仕掛けると脅していました。これにアジア各国は秀吉を傍に近寄れば噛み付かれる狂犬のようなマッドドック的な捉え方をしていたようです。それに対して次の日本の統治者となった家康は危険な秀吉を倒した男と認識されます。それを利用して日本のイメージを一新して各国と友好を結んだ上で貿易を盛んにしようと考えていたようです。

欧州との貿易には毒がある

当時ヨーロッパとの貿易はフグに例えられていました。つまりフグ自体は美味いけれど身に毒がある。それは貿易自体には旨味がある。しかし、欧州との貿易をする場合は一緒にキリスト教の宣教師が付いて来て布教活動を行うという毒も一緒に喰らうか処理をしなくてはならない。当時のキリスト教は植民地支配の一環として存在しており、一向一揆などで宗教の怖さを家康は十分過ぎる程に知っています。そして一向宗であれば国内問題で済みますがキリスト教は外国の支配の手が伸びて来るということです。この点については秀吉も散々に頭を悩ませたようで一時は一夫一妻でなければ自分もキリスト教徒になるのに等と嘯きながら貿易の旨味だけを味わおうとしていた時期もあったようです。これは結局、失敗に終わり最終的にはキリスト教を禁じる禁教令を出すに至ります。同様に家康も一時はキリスト教会派の一つであるフランシスコ会に京都と伏見、大阪、堺、浦賀、和歌山に会堂の建築を許可していましたしキリスト教の布教すらも許していた時期があります。

キリスト教を利用しようとする家康

布教を許した経緯としては1598年(慶長3)12月に禁止されていたキリスト教の布教を行って逮捕されていたフランシスコ会の宣教師ヘロニモ・デ・ヘスースを家康は伏見城で喚問しました。彼が死を覚悟してその場に臨んだであろうことは想像に難くありません。ところが家康は彼に死を申し渡すどころかキリスト教を江戸で布教する許可を与えています。
代わりに家康は彼にスペイン船の浦賀寄港と優秀な航海士および鉱山技師の派遣を要請します。
これはスペイン船を寄港させることでスペイン船から航海技術などの技術移転を目論んでのものと推測します。
そして船が寄港すれば船の修繕も行われるます。それを機会に嘗て鉄砲製造技術を学び取ったように造船技術を手にしようと目論んでいたのではないかと思いますし、また優秀な航海士から航海術について学ぶことで製造した船も動かすことが出来るようになります。
(鉱山技師については日本に既に存在する鉱山を海外の進んだ技術によって再開発することを考えていたようです。この後に家康は関ヶ原の戦いに勝利を収めると上杉景勝の持つ佐渡金山と毛利輝元の持つ石見銀山を取り上げているので、関ヶ原の戦いが起こる数年前から毛利は別としても敵対の意思を見せ始めている上杉の鉱山を取り上げようと目論んでいたのではないかと考えると寒気がします)
以上のように家康は貿易を行う為に外洋に出る気まんまんです。

外交顧問と出会う

次に1600年(慶長5)にオランダ船リーフデ号が豊後国臼杵の浜に漂着します。リーフデ号はオランダから東洋との貿易開拓のために出発した5隻の船が残り1隻となり乗組員も100名以上いた者が僅か24名にまで減っていたという壮絶な旅路の果てでした。
リーフデ号漂着の報を耳にした家康は航海長のウィリアム・アダムスを大坂城に呼び出すと先ずは日本航海の目的を問い質します。アダムスはオランダから日本と友好的な通商関係を結ぶことを目的としてやって来たと答えます。
しかし狸と呼ばれる家康が友好的な関係を結ぶためにやって来たというアダムスの言葉をそのまま信じるとは考え辛いです。おそらくアダムスは同時に語ったのでしょう。
自分が新興国であるオランダとイギリスの使者である事。
オランダとイギリスはキリスト教ではあるがプロテスタントである事。
スペインポルトガルは敵対関係に有る事。
プロテスタントとカトリックも敵対関係にある事。

そして家康の耳にはカトリック教徒達からリーフデ号の乗組員達全員を死刑にするべきであると進言が行われていたと言われています。この進言はアダムスにとってプラスに働いたのではないかと想像します。この男はカトリックであるポルトガル、スペインが先行して訪れて既にある程度の関係が出来上がっているであろう日本の元首である家康に自分の属するプロテスタントとカトリックが敵対関係にあることを正直に述べている。自分の不利になる事実を伝えているということは他の言葉も信用する価値がありそうだという判断が働いたのではないかと思います。更には彼の佇まいです。元々、ウィリアム・アダムスはイギリス海軍に所属してスペイン無敵艦隊と呼ばれた「アルマダ」と戦って武勲を挙げてオランダに迎えられた人物のため同様に幾多の戦場を戦い抜いて来た家康にはアダムズの佇まいからも信頼を受けていたのではないかと想像します。
何れにせよ家康は余程この男を気に入ったのか名前も三浦按針という名を与えて250石取りの旗本にすると武士として帯刀も許しました。

家康自身は貿易推進派であった

このように徳川家康は鎖国を行って貿易を取り止める所か貿易に必要な人材を積極的に登用しましたしフグ毒であるカトリックすらも利用しました。
また、家康自体はカトリックとプロテスタントの対立を見て、それすらも利用しようと考えてウィリアム・アダムスを登用しているように思えます。つまり家康はヨーロッパと交易を行うにあたって宗教と貿易を別問題として分離しようと考えた上でプロテスタントであるオランダ陣営のアダムスを登用することでカトリックとプロテスタントのバランス取りを図ったのではないだろうかと思えます。従って家康は海外との関係構築にあたっては全方位型のバランス外交を行おうとしていたのではないかと思います。事実、後にオランダは貿易に宗教を持ち込まないという約束の元に日本との交易を独占的に行うようになり結果的に宗教と貿易の切り離しに成功しています。この辺りのバランス取りの上手さは狸の面目躍如だなぁ等と思うのですが、なぜ貿易は幕府の発展に欠かせない要素と考えていたであろう家康の方針が鎖国へと傾いていったのかは気になる所です。

それでは