ジョン万次郎が故郷に帰るまで

三つの水晶 幕末

ジョン万の生まれについて
ジョン万は文政10年1月1日に土佐の国幡多郡中ノ浜村で生まれました。家は貧しい漁師と農業を兼業する半漁半農の家に次男として生まれました。父は悦介、母は汐の元に生まれ、幼少の頃は親も手を焼く腕白小僧として過ごしました。

名前について
ジョン万と聞いてジョン万次郎ではないのか?と思った方もいると思うのですが、ジョン万次郎という呼び名は井伏鱒二が「ジョン萬次郎漂流記」の中で使用していた呼び名で井伏鱒二が使う前までに使用された事はありません。筆者が始めてジョン万次郎と名前を聞いた時は、なんで両方名前やねん。日本人にしたら太郎義男みたいな名前で本当に良いのか?等と思ったものですが、流れとしてはジョン・万が遭難してアメリカの捕鯨船に拾われる事となった際の船の名前がジョン・ハラウンド号だった事から因んでジョン・マンと船員達から呼ばれるようになり、更にこれを作家の井伏鱒二がスーパーマンじゃあるまいし、しかもジョンのマン(男)って普通じゃねえかと思ったかは知りませんがジョン・マンだと語呂も悪いし実際の名前は万次郎だからジョン・マンのマンに次郎と続けてジョン・万次郎にしようといった具合なんでしょうか。まぁ、確かに語呂はこちらの方が良いですが、そんな伝言ゲームの失敗みたいな名前の付け方で良いのか?とは単純に思います。因みに故郷の土佐に帰った後には本名として中浜万次郎を名乗りますが、苗字の中浜は故郷が中ノ浜なので中浜にしたといった流れで決まっています。ここで思い出したのは、そのまんま東の芸名決めのエピソードです。彼は東英夫という名前で活動していたのですが、ビートたけしが芸名を決める際にそのまんま東で良いんじゃないか(東英夫のままで良いのではないか)と言われたのを「そのまんま東」と名乗れと言われたと勘違いして、そのまんま東になったそうです。当時の名前を決める感覚というのは、現代の戸籍に登録される基本的には一生変えることの出来ない本名として登録するというよりかは、売れなかったり事務所を移ったら変えれば良いや位の芸名を付ける感覚の方が近いのかもしれません。

ジョンの転換期
ジョン・マンの父、悦介はジョン・万が9歳の時に死にました。しかし母と兄は病弱であった為、必然的にジョン万も幼いころから家族の為に働く事になります。後に日本と海外を繋ぐ大役を担っていく事となる男ですが、生まれた環境から寺子屋に通い教育を受けることは出来ず、読み書きもまともに出来ませんでした。
天保12年1月5日の早朝に14歳になったジョン・万は宇佐浦から鯵鯖漁に出る漁船に乗り込むも遭難して伊豆諸島にある無人島である鳥島に漂着します。一緒にいたのは筆之丞、重助、五右衛門、寅右衛門とジョン・万の計5人です。名前だけ見ると食べ物がなくなったら真っ先に疑われるのは五右衛門だなと思うので、疑いを掛けられてぶち切れた五右衛門が暴れだして地獄のような環境の中で血みどろの殺し合いが起こり最後に生き残ったのはジョン・万だけであったという事はなく、5人で仲良くかは分かりませんが協力してアメリカ合衆国の捕鯨船に助け出されるまでの143日間を生き延びています。しかし、当時の日本は鎖国の最中でしたので日本に帰る事は出来ず、救出された5人の内ジョンを除く4名はハワイのホノルルに着くと船長が「ここならジゴロでも生きていける」と言ったかどうかは分かりませんが下船する事となりました。ジョン・万は船長ホイットフィールドに頭の良さを気に入られ本人も希望したこともあり、そのまま航海を続け航海が終わると、ジョン・万は船長の養子となりアメリカで英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学ぶ事となりました。

アメリカでの生活
ジョン・万がアメリカで暮らす事になった地は北部のマサチューセッツ州のフェアヘーブン。嘗てイギリスの清教徒たちがイギリス国教会から迫害され信教の自由を求めて降り立ったケープゴット岬が窓から見える家に居候する事となりました。この地は穀物のよく実る緑の多い地方でした。住む人達の人柄も穏やかで勤勉であると後にジョン・万は日本で報告しています。実際にジョン・万を引き取ったホイットフィールドは二度目の新婚生活の中で彼を同じ家に住まわせているので、やはり心の広い御仁であったようです。
この地でバートレットアカデミーという航海学の専門学校に通い主席の成績を残したといいます。また、学費は捕鯨船に乗っていた頃の給金で自ら支払いました。この生活の中で人種差別を受けたり、住み込みのバイトで碌な食事も取らせて貰えずに病気になって再びホイットフィールド家に戻るといった経験を行って尚、感謝の念が勝っていたというのですから、彼のアメリカでの生活は余程に得難いものとして記憶され、薩摩藩の取り調べの中でも一度「ボヲス」という馬に乗ったが落ちて気絶した。といったような事を話しています。また、日本では腕白小僧で親も手を焼くとあったジョン・万がアメリカでは自己主張の激しい人間しかいない為なのか恥ずかしがり屋として見られていたというのも面白いと思う点です。
また、この生活の中で民主主義の概念等は日本での絶対的な身分差別を知るジョン・万にとっては理想国家として映ったようです。これが同じアメリカでも南部に住むことになっていたならアフリカから連れて来た奴隷を鎖で繋いで働かせている姿を否が応にも見せつけられる事となり考えも大きく変わったかと思いますし、そうなればジョン・万の伝えようとする民主主義という概念も所詮は絵空事と人々に受け入れられなかった可能性は多いにあります。これは日本にとっても幸運なことだったでしょう。

しかし考えてみると正に人間、万事塞翁が馬の通りで本来なら貧乏人の小倅で終わり、名も無いまま人生を終える筈であったジョン万は捕鯨船に拾われたことでアメリカの最先端の知識を得る事になり、アメリカとの対応を迫られた幕府から招聘されて日本と海外を繋ぐ重要な役割をこなし結果として歴史に名を残す事となったのですから人の運命とは分からないものです。

再び日本に帰るまで
学校卒業後のジョン万は捕鯨船に乗る道を選びます。やがて、乗り込んだ船の船長が発狂してしまい次の船長を選ぶ選挙が船内で行われ同率一位となりますが同じ一位の年長者に船長の座を譲ると自分は副船長となります。この辺り、謙虚さが出ているのですが船長になった者の器が小さいと東洋の猿めが、グギギ・・・。と妬まれて大変になる気もするのですが、どうもジョン万は調べているとかなりのコミュニケーション能力を持ったリア充体質っぽいので大丈夫と言えば大丈夫だったのでしょうか?ジョン万は弘化3年(1846)から船員として働きますが嘉永3年(1850)に味噌汁が急に飲みたくなったかどうか知りませんが日本に帰ることを決意します。その為、帰国の資金を貯める為にゴールドラッシュに沸いているサンフランシスコへ乗るしかないこのビッグウェイブにと言わんがばかりに向かい金を数ヶ月間掘り続けて600ドルの資金を手にするとハワイのホノルルへ向かい嘗ての漁師仲間に帰国を呼び掛けた所、寅右衛門を除く3名は日本に帰ることを望みます。寅右衛門を除く4名は一緒に上海行きの船に乗り込み、嘉永4年(1851)に日本に近づいた適当な所で貯金して購入した小舟アドベンチャー号に乗り換えて琉球の糸満村に上陸。そこでおまえ怪しいなと捕らえられます。当時の琉球は薩摩の統治下にあった為、彼等は移送される事となったのでした。

ジョン・万の格好
ジョン・万は下図のような昭和の頃に田舎から都会に出稼ぎに出た兄ちゃんが粋がって戻って来たみたいな格好で上陸したそうです。まぁ、筆者が役人でも問答無用で逮捕です。
帰国当時のジョン万次郎(河田小龍画)

薩摩に連行されるジョン・万
ここでの彼等の幸運は薩摩藩の藩主が島津斉彬であった事だと思います。島津斉彬は蘭癖大名だと陰口を叩かれる程の海外通ですから、捕らえた側の判断によっては死刑になる可能性も十分にあった中で彼らにとって最高の人間に捕らえられたと言って良いと思います。
その為、彼らにそのダサい格好どうにかしなよの意図があったかは知りませんが衣類と日用品および1両が与えられる事となり、食事には酒も付いたということなので罪人というよりかは賓客として扱われたようです。
薩摩に着いたジョン・万に島津斉彬は実際にアメリカの話を聞きます。その中で斉彬は捕鯨や造船、海事知識に特に興味を持ち、ジョン・万に小型船の模型を作るように命じます。これにジョン・万は応えて琉球から乗って来たアドベンチャー号を基にして作成。後にこれを基にして薩摩藩では越通船(おっとせん)を実際に作成し運搬船として使用される事となりました。

その後のジョン・万
薩摩で多忙な日々を過ごすジョン・万ですが、遭難した為とは言え脱国の罪人ですから、脱国の罪を裁く為に長崎奉行所へと送られる事となり、ここで取り調べを受ける事となります。その際にアメリカでの選挙や民主政治について自由平等の精神について事細かに話したと言います。どうやらジョン・万は他の場所でも取調べを受けた際には同様のことを話している様子なので、彼の帰国の意図している中には民主政治について日本に行き渡らせたい、少なくともその概念を知らしめたいという思惑が含まれていたように思います。また、実際にジョン・万が持ち帰った書籍の中にはジョージワシントン一代記が有り、この書物は何だ?の流れから必然的に民主政治についても説明するという流れを想定していたのではないかと想像します。何れにせよジョン・万は長崎奉行所にて、勝手に領国外に住んでならない。死亡した場合には届け出よ。という二つを条件に土佐へと引き渡される事となります。
ジョン・万の更なる幸運は土佐藩の藩主が山内容堂であった事であると思います。彼は四賢公の一人に数えられる一人であり「酔えば勤王、覚めれば佐幕」という結局どちらだかよく分からない人で西郷隆盛からは単純な佐幕派の方が遥かに始末が良いと嘆かれる人物でもあるのですが西洋の情報を得ることの重要性を知っていました。彼は吉田東洋にジョン・万の取調べを命じます。しかし、これは取り調べというよりかは西洋事情を聞き取らせることが主な目的だったようです。その証拠に途中で山内家の分家に招かれて洋服で出席し歓待を受けています。
この取調べを終えて、ようやく故郷の中ノ浜に帰ることを許されたジョン・万は無事に母と再会する事が出来ました。

この先もジョン・万の物語は続くのですが今回はこの辺で一度締めとさせて貰います。