西郷隆盛の恩人とも言える赤山靱負の切腹が決まりました。それを変えさせるべく彼は動きますが、これは叶いませんでした。
赤山靱負の切腹は実行され、大久保利世(次右衛門)も喜界島へ島流しとなります。
お由羅騒動とは
島津斉彬を藩主にしようとする運動の中で調所一派の島津兵庫とお由羅サイドに立つ城代家老の島津豊後の打倒を急ぎ暗殺計画が立ち上がり、これが露見したことによって発生した一連の騒動。始まりは調所広郷の服毒から始まっているとされる島津斉興による斉彬派を粛清した事件であるとも言えます。
お由羅騒動が明るみとなった切っ掛け
暗殺計画が明るみとなった切っ掛けは広郷調所の後釜となった島津将曹たちが金に糸目を付けずに斉彬派の動きを探る中で斉彬派筆頭とみなされる近藤隆左衛門が江戸に送った密書を送ったことを知り更にそれを奪い取ることに成功した事とそれとは別に斉彬派の一人であった但馬市助なる者が裏切り反斉彬派の側役伊集院平に密告した為に明るみに出る事となりました。また、補足情報として、島津将曹は調所広郷と婚姻関係を結んでいた縁から登用された人物でしたので、正に恩人の仇討を果たさなければならないという気持ちが強かったのではないでしょうか。しかし後に斉彬が主君となり失脚する事となりますので正に人生一寸先は闇という心持ちがします。
お由羅騒動による粛清
嘉永2年(1949)12月から翌年の夏にかけて斉彬派であった50名余りの人物が切腹、遠島、隠居、謹慎等の処分を受ける事となり、町奉行兼物頭・近藤隆左衛門、江戸詰め家老・島津久武(壹岐)、町奉行兼家老座書役格・高崎五郎右衛門は中心人物とされ全員が切腹する事となりました。赤山靱負も処分者の中に名を連ねる事となり切腹。西郷の身近な人物では琉球館掛を勤めていた大久保利通の父、大久保利世(次右衛門)は罷免された上に死罪の次に重い刑罰である遠島として喜界島へ連行される際には監視役人に対して「しっかり見張っとれ、隙を見て逃げるぞ」と憎まれ口を叩きながら連行されたと言います。利世が罷免された役職は船奉行と琉球館担当であり斉彬派でもあったので琉球を通じての密貿易の事柄について斉彬派へ情報を流していた。もしくは斉興派から流していたことを疑われての処分であったと想像します。また、大久保利通(正助)も記録所書役助を免職されて謹慎処分となり、大久保家は収入の道を断たれた上に父親への仕送りも行わなければならず西郷家のように畑もない大久保家は日々の食事にも事欠くようになり正助は妹の嫁ぎ先へ借金を申し込む手紙まで書いています。この大久保家を友人である西郷や吉井等が助けたと言います。また、斉興の処分は徹底されており、特に斉彬派の筆頭とされた近藤隆左衛門については鋸引きの上で磔。他にも島津久武(壹岐)については家老職を罷免した上で島津姓を平屋姓に変え、名前についても先祖から伝わる通字である「久」を没収して頭を剃髪させた上で隠居を命じましたが島津久武は4月28日に自刃を選びました。
お由羅とは
島津斉興の側室ですが正室が亡くなっている事と久光という息子が生き残った為に正室同様の扱いを受けました。生まれについては江戸の大工の娘とも八百屋の娘とも船宿の娘とも言われますが詳しくは不明、薩摩藩邸で奉公していた所を斉興に見初められて側室となったのは間違いないようです。正室の周子が亡くなった後に側室を取らなかった所を見ると斉興はかなりお由羅という女性に入れ込んでいたようです。当時の資料中には「お由羅どのは美にして艶也」「怜悧な上に転生の麗質」等と残されており賢い美人だったようです。まぁ、どうも賢いという点が後に多くの人命を奪う事になるのが罪深いとでも言いましょうか。証拠こそ無かったものの斉彬はこのお由羅を大いに警戒しておりお由羅騒動の前に起きた斉彬の二男が無くなった際に屋敷の下に設置された呪術人形はお由羅の抱える者の仕業と目されており、斉彬はお由羅を警戒し薩摩藩にいる斉彬派の者たちに身辺を探らせる等の手を打っていました。言ってみれば若かりし頃のお由羅は賢いチャーミングな美人さんでしたが気が付けば年を取りいつしか女狐へとその姿を変えていたといったところでしょうか。
島津歳貞
安政2年(1855)に島津分家である桂家の養子となり桂久武となります。その際には造士館演武係方といった要職を務めていましたが、兄の島津津久蔵が斉彬派家老であった為に斉彬死後に左遷させられて離島勤務となり、そこで島流しとなった西郷隆盛と再会して旧交を温める事となります。元々、身分を越えて親しくしていたようで西郷隆盛自身が赤山靱負と親しくなったのは島津歳貞との親交からの繋がりという面も強かったようです。
介錯人について
赤山靱負の介錯を西郷吉兵衛に依頼したという説もあるのですが、他に加藤新平という剣術家に頼んだという説もあります。本来、介錯人というのは切腹人の苦しみを早く終わらせる役目を担います。その為にも剣の腕がたつことは重要でした。因みに首の皮一枚を残すというのは、首の重みで切腹人を前のめりに死なせる為の配慮でした。これを剣の扱いの未熟な者が勤めると何度も剣を振り下ろす事になり相手を苦しめるだけではなく面目を失わせる行為ともされたので、ここではやはり吉兵衛にではなく剣術家の加藤新平に依頼したというのが正しいように思えます。
筆者の感想
通常の社会に於いて派閥については、親亀こければ皆こけるという言い方をよくされるのですが、これが江戸時代の藩主の跡目争いともなると派閥争いに負けた側は文字通り命を奪われます。その為に当時の藩主と呼ばれる為政者の人々は序列を守り無用な争いによって命が失われる事を避けていたと思うのですが、この一点に於いて島津斉興は長男の島津斉彬ではなく序列の下にある島津久光を次の藩主にしようとしてお由羅騒動を巻き起こし、自分の片腕である調所広郷さえも失い、その挙句に幕府から隠居を勧められた上に後の世では暗愚として描かれる事となるのですから、どの地位に置かれようとも侭ならないものであると思います。
それでは