西郷隆盛像

薩摩藩の財政とそれを立て直した調所広郷について

当時、薩摩の年貢は8公2民という重税でした(平均的には四公六民と言われますが実際には増税を目指した徳川吉宗でも実質税率は35%がやっとだったようです)。農民は米を葬式の米と呼びました。これは米が葬式の時に供えられるものだったからです。これは薩摩の士族が飛びぬけて多かった為であり、また、それほど追い込まれた農民が一揆を起こさなかったのも数の多い士族が監視をしていたからです。この点に薩摩の士族として生を受けた隆盛の原罪と呼ぶべき存在があります。

当初、西郷隆盛も他の武士階級と変わらない民を愚かであると見る「愚民観」を持っていたのではないかとも思うのですが農民達と関わることによって変わって行ったのではないかと思います。関連するエピソードとして、やはり農民が年貢を払えずに愛馬を手放すことに惜しむ姿を目撃して役所に掛け合うことで税の納期を延期させたという話もあります。また、役職に就いた当初の上司である郡奉行には名奉行で知られた迫田 利済(さこた としなり)通称、迫田太次右衛門(さこだたじうえもん)が就いていました。この人の迫田の民への接し方と無欲な姿、そして最後は藩に年貢を下げるように申し入れて自らの職を辞してしまう姿に多感な隆盛は大きな影響を受けたのは間違いないように思えます。この影響なのか西郷隆盛は潔く職を辞しようとする傾向が有り後に司馬遼太郎はその点を投げ癖があると批判しています。

この調所広郷ですが、薩摩藩の家老となっていますが元々は茶道職でした。このままだと財政破綻すると自分の豪奢な生活を批判した息子を藩主から追いやった島津重豪ですが、ここでようやくこのままでは非常にまずいと気付いたのかは知りませんが、当時は茶坊主であった調所広郷を抜擢しました。この時点で斉興辺りは乱心なされたのではないかと頭を抱えていそうなのですが、更に重豪は調所に対して藩の借用証文を取り返し、50万両を備蓄せよという、これまた無茶振りをします。ただ、この調所広郷の凄い所は、どうせ薩摩の土地の殆ど(北薩地方を除く)は米作りに適さないシラス台地で農作物の増産も出来なければ、農民からも税を取り立てられる限界まで搾り取っているということを知っていたのでしょう。それなら薩摩以外から持って来れば良いと考えて中国との貿易(密貿易を含む)を強化するなかで黒砂糖の生産に目を付けると奄美三島(大島・喜界島・徳之島)の管理を徹底して生産と物流を強化しました。その管理の徹底振りは凄まじく大島に伝わる逸話では死に掛けの自分の子供にサトウキビの茎を折って口に入れると子供は喜びながら死んだが、その後に父親は捕らえられて死刑になった。という話があります。当時の薩摩藩を調べていると、本当に江戸時代この藩の特に奄美三島にだけは生まれたくないと心から思います。話は戻り、砂糖の専売と清との貿易強化によって収入の道筋を付けます。そして大きな問題として横たわる500万両の借金ですが、これは返済出来ないと開き直り、そうだ返せないなら返さなければ良いのだ!!とばかりに商人達に借金500万両を250年の分割で返すが利子は払わないと宣言します。また、この時は事前に幕府へ10万両を渡すという根回しを行っていたため問題にもなりませんでした。そして借金は廃藩置県によって薩摩藩が無くなったので当然、支払われることはありませんでした。
はっきり言って当時の薩摩藩の財政はキャッシュフローからして破綻していました(4人に1人が士族と言うと、例えると工場に勤める社員と家族含めて1万人の内2500人が営業、女子供が半分の5000人と考えたら実際に工場で商品を作っているのは2500人だけといった状況です)これを立ち直らせた挙句に備蓄金として当初の目標を上回る100万両を達成させたという成果は瞠目に値します。この人がいなければ恐らく斉彬が反射炉の建設や軍艦の建造を行うことは出来なかったと考えると薩摩が維新を成功させた大きな立役者とも言える人なのですが、その末路は決して明るいものではありません。本当にこの時代の薩摩藩を調べると暗い気分になることが多いです。

西郷隆盛の役人時代「粗暴、あるいは郡方にて同役の交わりも宜しからず」と誹謗されることもありました。(『西郷隆盛と士族』)これは時に自分の信じたものを行政に反映させようと実際に上司に掛け合ったり、時には同僚の不正を追及するようなことがあったからのようです。