島津斉彬の地均し

西郷隆盛像 幕末

西郷どんを見始めて書き始めたブログですが、気付けば島津斉彬とは一体何者なのだろう?となり未だに西郷隆盛が大島に遠島(でも、年間6石の扶持米があったそうなので懲罰的な意味合いよりも身を隠すという意図の方が強いかも、まぁ彼の行動の元々は藩の指示によるものでしたしね)となった今も斉彬のことを書いている悲しい笑いです。
ドラマの進行に合わせて調べたものを上げていこうと思い今回で14本目の記事を上げようとしている所ですがドラマは普通に18回目が放送されているのはご愛敬というものです。
と、言う訳で今回も島津斉彬についてです。

やっぱり軍艦は必要でしょ

当時の日本では武家諸法度の一つとして大船建造の禁(大船建造禁止令)を制定することで大名が水軍力を高めることで幕府の脅威となることを防止する意図で制定されたものでした。そのため日本沿岸に欧米諸国の艦船が現れても平和ボケしていた幕府は大船禁造の禁を変えることを決断できなかったのですが、弘化年間で相次ぐ英仏からの来航が領内の琉球にあった斉彬はこれではたまらんと幕府に薩摩と琉球の間の航路に限っては大戦建造の禁の除外を要請して建造琉球大砲船という交易用の船に大砲を取り付ける建造許可を得ます。
しかし嘉永6年6月にペリーが黒船で来航します。洋上の6日頃にはペリーが「ダミア~ン」と小粋なジョークを口にしていたかどうかは知りませんが、幕府は日本全体の海からの攻撃を防ぐ為の施設の整備と併せて軍艦の必要性が生まれます。斉彬はこれを見越して大船建造禁止令の廃止と洋式船建造の必要性を各方面に働き掛け幕府もこれを受け入れます。
更に幕府は同年12月には斉彬に「軍船並蒸気船製造致し不苦候(軍船や蒸気船を製造しても良い)」という許可を与えます。この辺りは斉彬が阿部正弘辺りに嘉永元年にオランダ人フェルダムの蒸気機関に関する技術書を翻訳させた上に、のこのこ琉球に上陸して来たジョン万次郎からも造り方聞いて蒸気船とか作れそうだけど幕府に気兼ねすると作れなくて辛いわ~、野蛮な毛唐共から日本を守りたいわ~的な事を言って出させたのではないかと想像します。
そんなこんなで幕府から軍艦と蒸気船の製造許可を得た斉彬は早速大船12艘と蒸気船3艘の製造計画を立案。ついでに幕府から大船2、3艘の建造費を出すので提供を受けたいと言わせて売り上げ見込みを立てる強か振りです。そして今まで作っていた琉球大砲船を西洋型船舶の建造に切り替えて安政元年3月に日本初の西洋型帆船製造と言われる「以呂波丸」を竣工、次いで全長27メートル幅約7メートルで3本のマストの軍艦「昇平丸」を竣工。
それらと並行して蒸気船の開発も進め嘉永4年か ら研究を重ね斉彬が江戸に参勤交代で向かう安政元年1月には15馬力の長さ約21メートルの蒸気機関の建造を指示して薩摩を出発。翌年の安政2年5月1日に進水式に漕ぎ着けて失敗。蒸気機関は日本には未だ早かったと思いきや江戸の田町屋敷でも蒸気機関の製造プロジェクトを別に走らせており、こちらは安政2年7月3日に完成したものを公開して見た人達を驚かせます。同年8月23日に蒸気機関を越通船に取り付け試運転したところ好評を得たので雲行丸と名付けます。名前の由来は乗った人間が衝撃の余りにう○こを漏らしたことから由来する訳がなく、恐らくまるで雲の上を行くようであったとか、まぁそんな理由で決まったのでしょう。
斉彬が生きている間に大船12船の製造計画のなかで実際に竣工されたのは他に御用船として「鳳瑞丸」「大元丸」薩摩藩で使用する為の「万年丸」「承天丸」の4艘だけでした。他に斉彬は洋学者の石川確太郎に命じてイギリスの海軍制度を調べさせていた点から考えると同じ島国であり国土の広さも比較的近いことからイギリスをモデルとした海軍の整備を想定していたのではないかと想像します。

今回、書いていて斉彬が幕府に対して海外からの驚異を伝えると共にその対応を迫る姿が目に浮かびました。薩摩藩は海外から見ると日本の玄関口とも言える立地にある琉球を抱えていたため早くから欧米諸国からの驚異に曝されていました。そしてペリー来航によって自由自在に動く軍艦、つまりは蒸気機関を見せられたことによって日本が文字通り右や左の大騒ぎとなっていた中で斉彬はこれを作ろうとしていました。しかも斉彬はペリー来航の翌年には西洋型の大型帆船を造船して蒸気機関を動かし他にも水雷や地雷の実験を成功させていたというのは、やはり驚愕に値するように思います。
斉彬は技術の重要性を認識して、それを導入する為に実際に決断して実行出来る数少ない人物でした。更に藩主という研究に携わる人的リソースの割り振りを決める事の出来る人物となると更に数は少なくなります。齢50で斉彬は世を去りますが、せめてもう数年でも長く生きていれば幕末維新の景色は全く違うものとなっていたのではないかと思えてならず、そこに歴史の非情さを感じずにはいられません。

それでは