島津斉彬の跡を継ぐ者


苦労人の斉彬
斉彬は実に苦労の多い藩主であったと思います。
藩主になるにも斉興と御家騒動として表沙汰にならぬ様に苦慮しながら何とか持ち堪えて藩主となったのは43歳です。当時の家督相続の年齢は20歳程度で行われる事が多かったことを考えると20年以上も待たされてようやく藩主となれたのでした。しかも最後の4年半もの年月は父である斉興との暗闘を行い尚且つそれが表沙汰にならないようにぎりぎりの線を保ちながらの戦いを経てのものでした。
おまけに藩主となって薩摩藩に戻ってみれば斉興の粛正によって周りは全て旧調所派と斉興派の者ばかりという状況であり、斉彬の苦労はどこまでも続くという感があります。言ってみれば斉彬の苦労列車の旅、いつまでも藩主になれない駅~、次は、周りに味方がいない駅~、周りに味方がいない駅~、といった所でしょうか。その為、御家騒動への発展が十分に残された余地の中で苦慮に苦慮を重ねた采配を振るっていく事となります。

跡継ぎがいない
今回の斉彬苦労旅の停車駅は、跡継ぎがいない駅となります。
藩主となった斉彬ですが年齢は43歳、本来ならば20歳前後の跡継ぎとなる世子が居て然るべきです。長男である菊三郎が生きていれば23歳となっていたので問題なかったのですが残念ながら既にこの世に居らず、それどころか嘉永2年6月には四男篤之介を失い、更に翌嘉永3年10月4日は三男盛之進までも亡くしてしまいます。残るのは虎寿丸のみです。相次ぐ悲劇に、このままでは虎寿丸の命が狙われると悲観的になった斉彬は虎寿丸を世子として届け出ずに仮養子として久光の名前を届け出ようと考える程に追い詰められ、それを伊達宗城に止めるように忠告されて考えを改め虎寿丸を世子として届け出ました。

*仮養子という制度は大名や幕臣が参勤交代で国許へ帰ったり出張を命じられた先で死亡する場合に備えて決まった跡取りのいない場合に有事の際に親族を跡継ぎとして仮の養子とすることを幕府に届ける制度となります。仮養子は江戸に帰ると解除されるので届出書は老中も開かずに返却されるものでした。

虎寿丸の急死
安政元年、虎寿丸が急死します。同年の2月に近衛忠煕の娘と婚約が成立して間もなくのことでした。これに西郷隆盛は激怒します。当時、高輪屋敷には斉興が住んでおり、一緒にお由羅の方も居ました。虎寿丸の死にお由羅の方による関与を直感した隆盛は薩摩に帰る予定となっている有村俊斎と大山正円にお由羅と反斉彬派と目される島津豊後を討つ計画を大久保正助に送り同時に立ち上がることを計画します。
その頃、当の斉彬は自分の子供を世子にすることを諦め島津久光の子である又次郎(後の忠義)を世子とすることを考え始めます。それは自分が死した後の混乱を懸念してのものでした。しかし、斉彬派とも呼ばれる家臣達はお由羅憎しといきり立っている所である為、世子を久光の子にすると告げることで動揺が広がるのではないかと考えた斉彬は先ずは御子姓の伊東才蔵に告げて様子を確かめようとするのですが、告げられた伊東は動揺して隆盛に世子の件を直ぐに相談。結果、二人で斉彬を説得して又次郎など世子にすることは断じてならんと阻止しようとするのですが斉彬の決意は堅く考えを覆すことは出来ません。結局、有村俊斎等はお由羅達を討伐する計画と斉彬から世子を久光の子にするという二つの文書を携えて薩摩に帰る事となります。
そして有村俊斎達が出発した後に斉彬は漸くお由羅達の討伐計画を知る事となります。これに驚いた斉彬は隆盛等を呼び出し説得すると、西郷隆盛は考えを改めて討伐計画を取り消す文書を薩摩に送り、斉彬も世子の件は動揺する者が多いであろうことを懸念したのか発表することを延期します。

遺す斉彬
安政三年、子供を諦めたかのように見えた斉彬ですが、最後の一踏ん張りと頑張ったのか側室が妊娠。これに西郷は芝の神明宮に男子が生まれますようにと祈願し生涯不犯を誓います。この願いは神に聞き届けられる事となり無事に男子の哲丸が生まれました。しかし跡目争いを懸念した斉彬は自分の子である哲丸ではなく久光の子である又次郎を世子とします。哲丸は斉彬の死後半年後の安政6年(1859)1月10日に僅か生後一年四ヶ月で死亡してしまいます。
西郷隆盛がこの報を聞いたのがいつか確定されてはいませんが、時期としては奄美大島へ流されていた頃に知ったのはではないかと考えると奄美で彼はただ憎悪をたぎらせたのではないかと想像出来、それを思うと暗澹とした気持ちになるのですが、西郷隆盛は斉彬の意思を継ぎ後に明治維新を成し遂げたとも見えます。そう考えると島津斉彬という人は自分の血を受け継いだ跡取りを残すことは出来ずませんでしたが、彼の意思を受け継ぐ者は遺すことが出来たのだろうと思いました。