西郷隆盛が歴史的な人物になる上で島津家に馬鹿殿なしと言われる中でも突出した人物である島津斉彬が後見人になることは大きな要因であったように思います。では、なぜ島津斉彬が西郷隆盛を重用したのかについて書いてみたいと思います。
江戸に到着
西郷隆盛が初めて江戸へ行ったのは安政元年(1854)です。
その前年の嘉永6年はアメリカ東インド艦隊の司令長官ペリーの率いる黒船の来航があり、ペリーは日本に対して海国を求めました。
この要求に混乱収まらぬ中で西郷は江戸に入る事となります。
自ら西郷を任命する斉彬
島津斉彬は江戸への参勤交代の供回りを行う名簿の中に自ら西郷隆盛の名を書き加えたといいます。
この際に西郷隆盛は郡方書役助から中小姓という侍と足軽の中間に位置する役職に任命されています(江戸幕府の軍制だと将軍外出の際に徒歩で従う歩行小姓組の主だった者の役職が中小姓だった)
この任命に対して後年の西郷隆盛は今回の抜擢は農政に関する意見書を出したからではないかと語っています。
やはり立身出世を望むのであればどこかで上役にPRすることが必要なようです。
待ち望んでいた人材
この頃の斉彬は藩主の座に固執して粘りに粘る斉興から、ようやく藩主の位を譲り受ける事が出来た所です。
斉彬が藩主になるのを阻止する為に起きたお由羅騒動によって藩の要職の殆どは斉興・調所派によって占められており、且つ自分を支持した人間の悉くは死罪か流罪などによっていなくなっています。
かと言って彼らの罪を赦すなどして呼び戻せば斉興派の人間達によって再びお家騒動が起きる可能性がある。
しかも呼び戻した所で殆どの要職を占める斉興・調所派の代わりが務められる者達は既に処刑されている為に担うことが出来ないという状況の中で若手である二才の者達が台頭することを誰よりも待ち望んでいたのは斉彬だったのではないでしょうか。
そういった状況から人材を求める中で西郷隆盛の意見書が斉彬の目に留まったようです。
更に郷中の二才達の統率者として名が知られていたことも西郷隆盛に幸いします。
斉彬は藩の人心を掌握する必要に迫られており、次代の若手である二才たちのリーダーとして名を知られる西郷隆盛という人物は正に斉彬が待ち望んでいた人物であったようです。
庭方役であった理由
同年4月、西郷隆盛は庭方役任命。
通常であれば藩主と下級武士が直に話をすることなど到底出来ませんが庭の手入れをする者に対して注文をつけるという体ならば話し掛けることが出来ます。
この人事の背景としては、西郷隆盛が斉彬が待ち望んでいた次代の若手達を束ねる人間であるとはいえ島津斉彬にとって彼が必ずしも有用な人間であるとは限りません。
有望な若手と思って重用してみたら今で言う田舎の暴走族の口だけ上手いお兄ちゃんでしたでは目もあてられないからです。
そこで斉彬は西郷隆盛を見定めようと考えて庭方役の任命したのではないかと想像します。
そして西郷隆盛は島津斉彬の試験に合格したようです。
結果として島津斉彬は西郷隆盛を自分にとっても有用な人物であると判断したようです。
(まぁ西郷隆盛が斉彬の目に適わなくとも西郷隆盛を掌握することは郷中の二才達を掌握する事に繋がるので、クレバーな斉彬なら西郷を適当におだてるなりなんなりして薩摩に留め置いて適当に上手く利用したのではないだろうかとも思いますが)
これにより西郷隆盛は水戸家を始めとした島津斉彬と繋がりのある大名家との連絡係を務める事となります。
これは後の幕末維新を成し遂げる際の人脈構築にも繋がりました。
後に島津斉彬は越前藩主である松平慶永(春獄)に対して西郷隆盛について次のように語ったといいます。「私家来多数あれどども、誰も間に合うものなし。西郷一人は薩国貴重の大宝也。しかしながら、彼は独立の気象あるが故に、彼を使う者私ならではあるまじく」と最大級の賛辞と共に難しさを語っています。
こうして西郷隆盛は島津斉彬の傍に仕える事となりました。