江戸時代の将軍には俗に大奥三千人とも言われる女性達の中から女性を選び放題という何とも羨まし、いえ不埒な場所が存在していた訳ですが、そんな所で将軍が享楽に耽ってばかりいれば、そりゃあ幕府も崩壊するわ!!等と思っていたのですが調べてみると意外にも当時の幕府の中では必要性のある重要な場所であることが分かったので今回は側室が必要であることについて書いてみます。
大奥の場所
先ずは側室達の住まう大奥の場所は江戸城に存在していました。江戸城の中でも本丸の政務を司る役所となる「表」が有り、その奥に将軍の住居となる中奥から銅塀で仕切られたその更に先にある御鈴廊下だけが繋がった場所に「大奥」が存在しました。
「大奥」は将軍以外の男性が基本的には立ち入ることが出来ず。そこには将軍の正妻である御台所と側室に仕える女中達が暮していました。江戸時代以前から住居の表には男性、奥には女性が住まうという形式のようなものが有り(今でも他家の妻のことを奥さん等と呼ぶのはこの名残り)それを究極的に発展させたものが大奥であったようです。
将軍の子供事情
大奥の存在理由として徳川家の子供事情から説明します。
将軍家徳川の中で子沢山と言えば11代将軍家斉ですが正室である広台院(島津家茂姫)と側室を含めて二十人程度の女性から51人の子供を作っており、これだけいると父親である家斉でも全ての子供の区別が付かなかったのではないかと思う程の人数いるのですが、この中で成人したのは男子12人、女子6人の18名。生存率は約35.2%。他に流産が5人、命名前に死んだ者も2人いた為これを母数に入れると生存率は約31%と更に下がります。しかし家斉は将軍となる家慶を残すことが出来たのでまだ良いですが、家斉の子供である12代将軍家慶になると出来た子供が23人(流産2人、命名前に亡くなった男子1人、女子1人)の内で成人したのは13代将軍家定と一橋刑部卿慶昌の2人だけです。但し家定は35歳で死亡。慶昌は14歳で死亡しています。
いくら昔とは言え、この生存率は低すぎるのではないかと感じるのですが、その理由として白粉に含まれる有害物質の可能性が指摘されています。将軍の子供の世話をする乳母達は白粉を顔から首筋、胸から背中にかけて広く厚く塗るのですが抱かれた子供はお乳を摂取する際に塗られている白粉も同時に摂る事となり、この白粉の中に鉛が含まれており、また時期によっては水銀が含まれたものが出回っていた時期もあるということなので知らぬというのは怖いものです。
子供を残さなくてはならない理由
次に子供を残さなくてはならない理由ですが、単純に正当な後継者が無い状態で将軍が亡くなれば世が乱れます。その為、世の安定を保つ為にも将軍は自分の子を為して残さねばなりません。仮に作り過ぎたとしても男子であれば養子に出す、女子であれば婚姻関係を結ぶことで他の大名との繋がりを強めることが出来ます。昔の支配者階級の人々は政略結婚が殆どで恋愛結婚など許されなかったのだと考えると偉くなり過ぎるのも考え物で何事も過ぎたるは及ばざるが如しのようにも思えます。
御台所の出自
将軍の正室である御台所は公家、宮家、天皇家から迎えます。因みに島津家から御台所となった芝姫と篤姫は近衛家の養女となっている為これに例外はありません。公家達は禁中並公家諸法度で徳川幕府から動きを縛られているという見方も出来、この慣行は両者間の融和政策であったという見方も出来るかと思います。しかし、公家から入って来た御台所で世子を残した者は居らず殆どが病弱で短命であるという事実を鑑みると公家側に何等かの思惑が有ったのではないかと思えてしまうのですが、きっと気のせいでしょう。
側室となる為には
他に将軍の側室となる為には先ず大奥の女中となった後に家柄や容姿の良い者が大奥の中を取り仕切る御年寄からの推薦を受けて将軍や御台所の世話をする御中臈(おちゅうろう)となり将軍と御台所には其々別の者が御中臈として付きます。しかし女中でも将軍の目に止まれば普通にお手つきとなります。そうなった場合は女中を御中臈に無理矢理出世させることで辻褄を合わせることで大奥の威厳を守ったようです。更に加えて述べると徳川家の中で正室から将軍になったのは3代将軍家光だけですので将軍家の血を遺すのに、やはり側室の存在は重要なものであったと言えそうです。そして子供を産んだ側室は御台所より偉くなるかというと、そう簡単な話でもなく、側室の生んだ子供は正室が御台所御養、詰まりは正室の子供として育てましたので、やはり正室の立場というのは強いものであったようです。
それにしても自分の妻である正室の世話係に手を出すのはどうなんだ?と個人的には思うのですが、どうやら昔の人もそれは同じであったようで、やはり基本的に手を出すのは将軍付きの御中臈の中から選ばれ、御台所付きの御中臈に手を出した場合は、御台所から将軍に御中臈を献上するという形を取って体裁を繕ったようです。しかし、こういった御台所付きの御中臈でお手付きとなった者は「御内証の方」と呼ばれるのですが、そう呼ばれている時点で内証もクソも無いだろうよ等と思います。更には陰で「汚れた者」と呼ばれ陰口を叩かれたりもするようなので正に踏んだり蹴ったりです。この辺は恐らく女の怖さで表に出ない女同士の戦いが裏であったのではないかと想像します。これが将軍付きの御中臈であれば元から手を出される前提で揃えているので「お清の者」と呼ばれるらしいです。これにはサンドウィッチマン風に「何を言っているのか分からない」と個人的にはツッコみたい所です。
そして将軍がお手つきをする場合ですが、時代劇のように「良いではないか、良いではないか」「あーれー、将軍様~」と帯を使って独楽のようにクルクル回してという流れではなく、将軍の目に適った御中臈が居た場合は御年寄にその旨を告げると「畏まり!!」となって夕方には布団がセッティングされます。そして夜の残業が済んだ御中臈は「お手つき」と呼ばれ、目出度く懐妊して女子を産めば「お腹様」男子を産めば「お部屋様」となり、そうなって始めて側室となれます。更にその後に自分が産んだ子供が将軍になればジャンピングチャンスで御台所を越える権力を手にすることが出来た時期もあったようです。しかし江戸時代後期に至っては自分の子が将軍となって始めて側室は将軍家の一員となれるように変わり、そうでなければ二の丸御殿や桜田御用屋敷で静かな余生を過ごしたようです。
しかし将軍の血を残すべく、これだけの体制を整えながら、それでも子供を残すことの出来ない将軍も居たのですから、やはり世の中というのは侭ならないもののようです。