西郷隆盛と須賀との離縁について

西郷隆盛像 幕末

嘉永5年(1853)に父である吉兵衛が亡くなった直後に家督相続願いが出され嘉永6年2月に西郷隆盛が家督想像することが藩から正式に認められます。

安政元年(1854)に最初の妻、須賀と離縁となります。僅か2年の結婚期間でした。
離縁へと至った正式な理由は現在も不明です。また、離縁した後の須賀についても実家の伊集院家が意図的に伏せたとも言われており以降の詳細についても不明です。

後に父母を続けて亡くした嘉永5年が一番苦しかったと西郷隆盛は述べていますが、その苦しさが続いていた時期でもあったではないかと想像します。両親の死による悲しみは元より、それに伴う葬儀費用と須賀との祝儀費用。それに加えて家督の相続が認められたとはいえ西郷家全体での収入が減少したことは疑いようがありません。従って西郷家の生活は以前のものより苦しくなった筈です。幸いにして西郷家の兄弟仲は良く弟の吉次郎が家のことを見ていたようですが、それでも不安の種は尽きず、更に島津斉彬は農政に関しても力を入れており、例えば、米の価格安定の為に常平倉の設置、新しいサツマイモの一種であるオランダ芋等の作物を試験的に作らせたりといったことを行っており、それに伴って役人として農政を担う郡方書役助役人としての仕事も多忙を極めていた筈です。そして島津斉彬の供として江戸に行けるかどうかという時です。江戸に行った場合に家族をどうするのかという問題も抱えていました。
そんな最中に吉之助が家を空けている間に須賀は実家に帰りました。

当時の西郷家の状況を須賀の視点から見てみたいと思います。
須賀の実家である伊集院家は鎌倉時代の島津俊忠が薩摩日置郡伊集院の地に地頭職を得たことから始まっており、須賀の伊集院家はその分家の一つであると考えられています。その経緯から須賀の父である伊集院兼寛と日置島津の用頼みを行っていた吉兵衛との付き合いが生まれたのではないかと思うのですが、分家とは言え発祥から考えるとある程度の資産はあったと考えられます。そういった生まれから当時、貧窮の極みといって差し支えない状態の西郷家に嫁ぐというのは並々ならぬ苦労であったであろうことは想像に難くありません。
更に付け加えると薩摩では、屋敷の入り口も男専用のものと女専用のものとで分けられ、洗濯物も男用と女用でたらい区別しなくてはならないといった具合に男女差別が強い土地柄でした。そんな状況下で須賀は長男の嫁として家事や家計も含めて家政を実際に取り仕切る立場に立ったことで困窮の極みに達した娘の姿を見るに見かねた父親が娘を引き上げさせたというのが実情であったのではないだろうかと想像します。

そんな状況下で西郷隆盛は離縁の申し出を受ける事となります。当時は江戸に行く支度金を用意することも考えなくてはならず、結局、須賀と離縁した翌年の安政2年に家と田畑を売り払う事となった西郷隆盛に伊集院家からの離縁の申し出を断ることは出来ませんでした。
離縁から2年ほど経過した安政3年12月1日付の妹婿である市来正之上に宛てた手紙の中で「たとえ両親よりめとらせ妻候妻を滅後追い出し」と述べています。意味としては両親から娶ることを決められた妻を両親の死後に追い出した。といったようなものになると思うのですが、西郷隆盛の認識としては彼女を追い出したというものとなっていたようで、以降も彼女の存在は負い目として存在し続けたのではないかと思えます。

結果として両家の仲は二人の離縁が行われた後も悪化することはなく、西郷本人も須賀の弟でもある伊集院兼寛(後に大蔵官僚を経て貴族院議員)が江戸に来た際には自分の家に住まわせて面倒を見るといったように付き合いは続きました。

それでは