西郷隆盛の父と母の死について

西郷隆盛像 幕末

嘉永5年(1852)を西郷隆盛は「この年は自分の一生で最も悲しかった年であった」と述べています。

7月に祖父の西郷龍衛門が死去。
次の9月に父の西郷吉兵衛が死去。
更に11月に母の満佐が死去。
西郷家には祖母と弟妹が残されました。

西郷吉兵衛について
西郷吉兵衛は薩摩藩の武士の中では下から二番目の御小姓与に属し、勘定方小頭の役職に就いていた。俸禄は決して多くなく、それも西郷隆盛が幼少の頃に生活苦から禄を売り払っているので実質的に無禄。役職が現在で言う経理であるため上手く立ち回ることも出来たと思うのですが、そういった不正な金には手を出さない。周りからは正直を通り越していると陰口されることもあったようです。日課は夜が明けると馬に肥桶を括り付けて城下から西に8キロ程の西別付にある西郷家の畑に向かい芋や麦を作ると帰りは雑木林で薪を拾って帰宅。しかし武士の体面も有って使用人を雇わなくてはならないため質屋へもよく通ったといいます。しかも、これも武士の体面から表立っては行きにくいので代理に近所の女性に代わりに行ってくれるよう頼むのも度々だったようです。

息子の西郷隆盛も藩の農政を担う役人時代に同僚の不正を追及したりといったことを行っており、その事から「粗暴、あるいは郡方にて同役の交わりも宜しからず」と誹謗されています。こういった真っ直ぐな点は父親譲りだったのではないかと思います。それは後に人を惹きつける魅力となりやがて幕末維新の中心人物としていったのだろうと思います。

母の満佐について
母のマサは「この人が男だったらご家老にでもなりそう」だと言われる程の女丈夫であったと言います。お盆やご先祖の命日には魚などを一切口にしない信心深く強固な意志も持ち合わせていました。そして父の日置島津での「用向き」は母の家の伝手によるものだったといいます。これは父の副業となって西郷家を大いに助けただけではなく西郷隆盛にとっても後に赤山靱負との人脈となり息子の助けにもなりました。家では満佐自身も内職に精を出したが暮らし向きは決して楽なものではありませんでした。しかし子供たちには「貧乏を恥と思ってはならない」と日々言い聞かせた。もしかしたら、それは或いは自分に向けての言葉でもあったのではないかとも思うのですが、母は自分の体調が悪くとも祖父や父の看病を行いました。亡くなった後には母の弟である椎原国幹が西郷家を助けたと言います。

西郷隆盛は母から優しさと同時に心根の強さを受け継いだのではないかと思います。そして書いていて気付いたのですが母は隆盛へ人との繋がりを遺したことにも気付きます。

同年に西郷隆盛は嫁を娶ってもいます。
相手は伊集院須賀という女性でした。彼女の情報は殆ど残されていません。鹿児島城下上之園町に居住していた伊集院直五郎の長女。母は伊集院重子。弟は伊集院兼寛。天保3年(1832)4月に誕生した事。安政5年(1854)に離縁となった事だけです。

それでは今回この辺で