斉彬の野望

島津斉興から薩摩藩主としての地位を正に四苦八苦して継いだ斉彬ですが、斉興が懸念していた通り今まで溜めた資金を湯水の如くじゃぶじゃぶ使って斉興の苦労なんぞ知ったことかと薩摩の近代化を推し進め始めます。

薩摩は海外からの脅威に一番に曝される好立地
薩摩藩は琉球を領地として持つために琉球と清との貿易の中から自然と日清戦争や欧米列強国の情報も入って来ています。またフランスが琉球と交易やキリスト教の布教を要求する為に訪れますが、余計なお世話と断ろうにもフランスはイギリスが清をボコボコにしたから次はおまえの番だが俺達が守ってやろう等と取り入ろうとして帰ろうとしません。これは例えて言うなら居酒屋を経営していたらヤクザが酔っ払いから守ってやろうとやって来るのと一緒です。それを琉球が迷惑だから強制的に排除しようとしても相手の方が圧倒的に強く、おまけに幕府は当てにならないといった状況ですので琉球は下手に出てのらりくらりと相手の要求を躱して帰って貰うといった具合で対応に苦慮していましたし、それを琉球と一緒に苦慮した薩摩藩ですので欧米列強各国の脅威を肌身に感じて知っていました。その中で島津斉彬という四賢公と称され尚且つ海外の技術を取り入れようと考える先進的な人間が薩摩藩の藩主となった巡り合わせには運命的なものを感じます。

斉彬の腹の底は何処にある?
斉彬は薩摩藩に下国した嘉永4年(1851)5月8日から翌5年(1852)8月23日の1年4ヶ月で外国船来航に備えての海岸巡視体制の整備および砲台の設置や大砲の鋳造とそれに合わせた軍隊調練を行っており嘉永5年(1852)に行われたフランス陸軍式大隊運動はバタイロン(大隊)繰練の始まりと言われ同年8月14日の大小銃砲隊一万一千余人の規模で行われました。
他にも時間は前後しますが嘉永2年(1849年)4月3日付の斉彬から水戸斉昭への手紙の中で薩摩藩で恐らくは幕府に秘密で製造したであろうゲベール銃を品物が品なので封じ箱に入れて献上すると書き贈っています。しかし当時の日本で最新式とされたゲベール銃が欧州では既に時代遅れの品となりつつあり、未だに多くの火縄銃を使用する日本と欧米との力の差を感じます。実際に後に黒船でやって来るペリーは土産としてライフル(旋条銃)を2丁だけ持って来ますが、これはアメリカの技術力の高さを見せ付ける為のもので黄色い猿にアメリカ様の凄さを見せ付けてやろうという思惑から贈られた物と思われます。現に幕府はライフルを受け取りながら驚くだけで複製しようともしませんでした。それを斉彬は幕府から借り出そうとして一度は阿部正弘に御三卿以外には見せることも許されない品であると断られて失敗、仕方ないので一橋慶喜の伝手から無理矢理借り出すと持ち帰り分解して設計図を作り何食わぬ顔をして幕府に返すと薩摩藩で3千丁程のライフルを作ろうとしています。当時、薩摩の集成館にはライフルを作ることの出来る工作機械が揃っていたことはペリーの想定の範囲外でした。もし斉彬が生きていれば複製されたライフル銃3千丁を持って上洛、そこから圧倒的な武器の能力差から日本を近代国家に一気に変革させていれば驚愕するペリーに「ファッキンジャップ位わかるよ馬鹿野郎」位のことを言ってやれたのではないかと思うので非常に残念です。いや、まぁ絶対に言う訳ないとは思いますが。
話を戻すと斉彬の以上の行動から見て現状の幕府では何れ諸外国からの開国要求を断り切れなくなり鎖国が続かない事を見通しており、またそれに伴って外国と日本、若しくは幕府と薩摩との武力衝突も可能性として想定していたのではないかと思います。志半ばで倒れた斉彬の腹の底が何処にあったのかは今となっては想像するより他ないのですが斉彬にそういった次の天下を取る野望のようなものが無かったのかどうかは大いに気になりました。