西郷隆盛像

島津斉彬の目論見


藩主となった斉彬は意欲的に技術開発を行い艦船製造や武器製造、工業開発を順調に行っていましたが薩摩に帰って来た斉興は斉彬が自分が借金を懸命に返して必死に貯めた金を蘭癖によって無駄遣いする斉彬と見ただろうと想像します。特に斉興が作らせたご自慢であった磯の別邸はかつて錦江湾と桜島を見渡す事の出来る絶景を有していましたが今では無惨にも巨大な反射炉と溶鉱炉が建てられており、その変わり果てた姿を見て膝から崩れ落ちたであろう斉興の姿が目に浮かぶなぁ等と思う悲しい笑いです。

薩摩に帰ることの出来ない斉彬

安政2年(1855)斉彬47歳の時に参勤交代で薩摩へ帰ろうとしますが幕府から引き止められます。安政元年(1853)3月に日本とアメリカは和親条約を結び下田と函館の開港しましたが、言うまでもなく此れはアメリカの圧力によって無理矢理に結ばされたものです。しかもアメリカや諸外国との交渉はこれからも継続して行われるため今後の対外政策について斉彬の能力が求められたのでした。
当時の老中は阿部正弘。この人は根回しの名人と呼べる人でペリー来航によって発生した外交問題で一番の問題は外圧によって日本の内部が動揺して乱れることが一番の問題であることを知っている人でもありました。斉彬は海外の情報に詳しく御三家の中で最も外交に五月蠅い水戸斉昭に顔が利き開明的な外様諸大名たちとも友好が有り、おまけに養女を近衛家に嫁に出してもいるので朝廷にも顔が利きます。この当時、阿部正弘とって斉彬を薩摩に帰すという選択肢はなかったようです。

大砲の町

この頃は幕府から芝浦に面した諸大名屋敷には大砲を設置する為に台場を築かせた兼ね合いから大砲の試射が盛んに行われていました。この頃に西郷隆盛から樺山三円に送られた手紙の一部を引用します。

「何も相替わり候儀御座なく、砲声盛んなる事にて、去月十四日には老若を初め諸役も田町へ差し越され、大賑敷事共に御座候。近々の内老公御出での筈に御座候。勝れたる機会と相考え、楽しみ居る事に御座候」

砲声盛んなるの部分は薩摩の田町屋敷で軍艦に載せる大砲を作らせていたことから、それの試射を行っており、他藩も同様に用意した大砲の試射を行っていたであろうことを考えると当時の芝浦近辺は大砲の町とでもいう様相を呈していたようです。

同年5月14日、前述の隆盛の手紙にある老若を初め書かれた老若とは老中と若年寄のことで詰まりは阿部正弘を始めとした幕府首脳陣の事です。彼等は軍事教練を見せられた後に越通船に乗り品川沖に停泊する昇平丸に乗り込むと斉彬号令の下で船を走らせ大砲の試射を行います。初めて乗り込む西洋型軍艦と船上発射される砲操作は訪れた彼等の心を大きく動かしたようで彼等の視察は日没まで続いたといいます。また、この演習は江戸の市民達も興味を惹かれたようで見物人が芝浦に集まり夜には出店が出る程の賑わいだったそうです。

西郷隆盛が楽しみにしていたお披露目

同年6月7日、手紙の中でも西郷が楽しみにしていた水戸の斉昭と当主慶篤親子に藤田東湖が付き添ってやって来ます。
先ず、斉昭は船内を一通り見回した後に後部甲板に設置された床机に腰掛けると据え付けられた大砲10門から各2発の試射を希望します。
それを受けて法螺貝が鳴るとそれを合図にして別の船で待機していた60名が昇平丸に乗り移り大砲1門につき6名が配置に就き順次合計20発の大砲を発射。他にも操船する各船員達の動きは迅速。その様子に感激した斉昭は接待役の島津豊後に次の一首を贈りました。

高輪なる島津のぬし船に乗りてよめる
そなえする名も高輪のいくさぶね
聞きしにまさるつくりなりけり

内容としては島津の戦艦に乗ったら予想を超える良い作りである。といったような内容になるかと思うのでべた褒めですね。

同年6月9日、次に来るのは第十三代将軍家定です。芝浦の浜御殿に足を運ぶと陸上から昇平丸を見ます。将軍もこれに満足したのか同日付で幕府から斉彬に昇平丸を献上して欲しいという伺いが入ります。この時の幕府は斉彬に臍を曲げられて昇平丸で一発喰らわされては敵わんとでも思ったのか下手に出て来ていた珍しいケースだと思います。これに対して斉彬は、これは日本の為に作った船であり、注文を受けている2艘の内の1艘は元々献上する積もりであったので安心して欲しいといったような返答をしています。

これだけ見ると斉彬の太っ腹ぶりに驚いてしまうのですが、今後も軍艦の需要は継続的に出て来ると考えると、今回の幕府からの要請は商品開発の一環として元々提供するつもりであったテストマーケティング用の試作品の更に前段階のものの提供で済んで良かった位の意識であったのかもしれません。斉彬の優れた点は斉興が心配した浪費としての蘭癖に止まらず、それを事業化して思い切った投資を決断出来た点にあると思います。他にも斉彬は海外への輸出品として薩摩切子を作らせましたがオランダの医師であるポンペ・フォン・メールデルフォールトが硝子工場を見学すると100人以上の人間が働いていたと残されており、当時かなりの規模であった事が伺えます。切子硝子の品質は高く当時制作のもので現存するものは今なお高額で取引されています。事実、他にも海に面した藩というのは海防に頭を悩ませていたことを考えれば技術の優位性とコストが見合えば海外にではなく薩摩藩に軍艦製造の発注を出していた可能性は十分にあります。

斉彬の目論見

斉彬の構想の中には薩摩藩の中で艦船や武器の製造を行うことでマネタイズする構想があったのではないかと思います。
上記のように幕府を顧客としても想定しており営業活動も行っている。日本が海外と相対するにあたって軍艦や大砲などの武器を必要とする事を見越しており、そして現状のままでは日本と海外との技術格差から海外にその発注がされる可能性が高く、しかしそれは同時に薩摩が海外の技術に追いつければ海外に代わって自藩が収益を上げることが出来るという目算が有ったのだと思います。この点は資金を貯めることが出来ても、それを投資するという観点のなかった斉興との違いであり斉彬が馬鹿殿なしと言われる島津の中でも抜きん出た存在であった所以でもあったのだろうと思います。

それでは