多くの矛盾を抱えた謎の男、西郷隆盛

西郷隆盛像 幕末

1898年(明治31)12月18日上野公園に西郷隆盛像の除幕式が行われました。

この銅像は高村光雲作となり、1889年(明治22)12月18日の大日本帝国憲法発布に伴う特赦として西郷が逆徒であるとされた汚名が解かれたことを切っ掛けとして薩摩藩出身者が計画して全国からの寄付と宮内省の出した500円の下賜とによって作られました。
因みに銅像の連れている犬の名前はツンといいます。これは後藤貞行作となり、西郷隆盛本人と犬のツンの作者は別々です。ついでに言うと犬のツンの銅像は手軽に持って行けそうなサイズに見えることから何度か溶かして銅として売ろうと考えた輩に盗まれそうになっているそうです。

御披露目された銅像の姿を見た、妻の糸はこれは西郷隆盛ではないと言ったそうです。

西郷隆盛は同時に写真嫌いでもあったそうなので、そのことから単に実際の人物と銅像が似ていなかっただけなのか、それとも別の理由があったのか?糸の言う言葉の真意は本人が亡くなった今となっては分かりようもありませんが、西郷隆盛を調べることで或いは推測のようなものを立てることはできるようになるのかもしれません。

私が西郷隆盛で印象に残るのは小説「跳ぶが如く」の中で作者の司馬遼太郎が西郷隆盛について調べたがどういった人物なのか結局のところよく分からないと述べている点です。

大きな人物であるようにも思えるが本人が何を考えているのかいまいち分からない。時に愚鈍であると評されたようですが、それは並外れた思慮の深さの反面であるようにも思えるのですが、無口で自分の意見を述べてリーダーシップを発揮して組織を推進させていった訳でもないですし、かと言って度量が大きく並外れた器を示して敵味方を含めた清濁併せ呑んで行ったタイプでもなく、寧ろ自分と考えの合わない性質の人間とは相容れず人間の好き嫌いのはっきりした人で、やや潔癖のきらいがあったようです。

西郷隆盛が小役人として過ごしていた頃です。

「粗暴、あるいは郡方にて同役の交わりも宜しからず」と誹謗されることもありました。(『西郷隆盛と士族』)

これは時に自分の信じたものを藩政に反映させようと実際に上司に掛け合ったり、時には同僚の不正を追及するようなことがあったからのようです。

西郷隆盛は薩摩藩の藩政を見てどう思っていたのでしょうか?当時の薩摩藩は苦しい財政から密貿易を行ったり、それどころか贋金作りにまで手を染めていたという話も聞きます。更に民には重い税を課すといったようにおよそ潔癖とは言い難い現実がありました。西郷隆盛は藩の中心人物になっていくと同時に現実と理想の間で板挟みになって苦しんでいたといった側面もあったのかもしれません。

しかし同時に周囲の人間を最大効率で動かし且つ最大限の成果を上げさせていったが故に倒幕を成し遂げることが出来たとも言えるので現実家でもありました。

西郷隆盛が意見の違いから政権から出て行ったことを司馬遼太郎は不思議がっているのですが、西郷隆盛は自分の意見を通すために軍を動かして国を自分の思い通りに出来る権力を有しながらそれを一切行使することがなかった。これは無欲であるが故とも言えるのですが、その後には西南戦争に参加している。

このどうにも掴み所がなく矛盾だらけで魅力的にも写る不思議としか言いようのない男である西郷隆盛。

個人的にはマンガ『カメレオン』の主人公であるヤザワみたいな人物と言われた方がよっぽど納得できる位なのですが果たしてその謎が解かれる日はやって来るのだろうか?等と思います。

それでは今日はこの辺で

 

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