ペリーと日本の化かし合い

西郷隆盛像 幕末

いよいよ、日本側は戸惑いを隠し切れないまま、一方のペリーは巨大戦艦から大砲を打ち鳴らしながら日本と開戦出来ないという事情を隠して両者は第一回目の邂逅を果たす事となりました。

取り敢えず偽者を送り込んでみる

いよいよ浦賀沖に黒船が停泊すると二人の役人がペリーの乗艦する旗艦サスケハナへと「自分はオランダ語が話せる」と英語で叫んで近付いて行きます。
一人はオランダ語通訳の堀達之助、もう一人は与力の中島三郎助でした。
これに対したのはペリー艦隊の中で唯一人のオランダ語通訳のポートマンです。ポートマンは小さな番船でやった来た二人に「提督は高官の乗艦を望んでいる」と下っ端に用は無い旨を伝えるのですが、通訳の堀は与力である中島を「浦賀の副総督」として紹介します。因みに大嘘です。与力は町の治安維持を図ったりという警察官のような役割を担っていましたが決してペリーの求める高官ではありませんでした。
この大嘘にペリーは期待に旨を膨らませます。なぜなら今までも欧州各国が日本に開国を迫りに来ていましたが、その誰もが日本から交渉相手となる高官を引っ張り出せずに終わってしまっていたことが殆どだからです。そこへ初手から日本側の副総督を引っ張り出すことに成功したのですからペリーが期待に旨を膨らませる気持ちも分かります。

偽者のちフェイク

しかし中島の乗艦が許可されるとペリー側は中島達に「なぜ総督が顔を出さないのだ」と不満気な問いを発しますが、中島達は「総督は船に乗らない」と答えます。しかしやはり押しの強いアメリカ人ですから翌日には総督を名乗る香山栄左衛門へ取り次ぐことになりました。今回も総督と紹介される香山は与力なのでフェイクです。
今風に言うなら社長を出して来いと言うクレーマーに課長職辺りの人間がキャバクラでは私も社長と呼ばれているから必ずしも間違いではない等と言い張ってクレーマーの前に出て行くといった所でしょうか。
しかし敵さんのペリーはペリーで戦艦で示威を示してはいるものの大統領からは発砲禁止令を受けながら今回の脅迫的な迫り方を日本にしているので狐と狸の化かし合いという気がしないでもありません。

ペリーの日本の理解

しかしペリーは開国を迫るにしても脅迫一辺倒ではなく日本へお土産を持ってきたりと硬軟を使い分けた交渉をしているように感じます。ペリーはアメリカが日本を理解するのにシーボルトの書いた「日本(nippon)」を読んで研究した上で日本が張り巡らせている障壁を打ち砕き日本を商業国の仲間入りをさせる。それを最も若い国のアメリカが挑戦すると述べています。

実際にアメリカは日本から見れば欧米列強と言えどもイギリス等に比べれば新興国である分の出遅れ感は否めません。そしてペリーが日本に来るにあたってイギリスの補給港を使用しなければならなかった為に思うように補給を受けられず足止めを喰らったこともあります。そのためにもアメリカが大腕を振って補給を受けられる港が必要でした。しかし武力で無理矢理、日本を開国させると言っても移動するのに何ヶ月も掛かる場所と戦争をするのは割に合いません。それに日本と戦争になればイギリスは中立を宣言します。するとアメリカはイギリス支配下のアジア諸港から補給を受けられなくなり物資が断たれます。そういった判断からアメリカの議会はペリーに日本と開戦を禁じる命令を出し、そのついでにイギリスへはアメリカがアジアに大型戦艦を進ませることが出来るのだという事実を示したかったのではないかと想像します。

アメリカ大統領国書受理の攻防

ペリー来航直後から国書受理の場所を巡る交渉が始まります。場所は浦賀付近の久里浜に決定。日程は1853年7月14日。来日から僅か6日目でした。
国書を渡したいペリーと受け取りを拒否したい日本の押し引きがあった筈なのですが、やはり黒船の驚異が交渉を進めたのか、それとも日本から総督を出せたという事実にペリーのテンションが上がり、その様子を見た日本側にはそのまま負い目となってしまったのかは不明ですがペリー自体も想像を超える早さのスピード決着となったのは間違いないようです。

久里浜には急造の会見所が設営され、ペリー側は300人程度の兵と上陸。日本側は浦賀奉行所は5千人程度とペリーに伝えたそうですが、実際はそれ以上の数であったとペリーは後述しています。また、その際に応接所の幕の陰や背後にいる日本軍の秩序は整っておらず調練の行き届いたものとは言い難いといった感想も残されている所を見るとペリーはやはり軍人なのだと思いますし、同時に戦の無い日本の兵士の秩序が緩んでいる現状というのもペリーは見て取っていたのだろうと思います。

何れにせよペリーは「日本国皇帝」宛に大統領国書を幕府に受け取らせたことで今回訪問の目的は充分に達成したと捉えたようです。その為、交渉強者のペリーは「日本にとって今回の国書受け取りに関わる問題は決定に時間も掛かるだろうから来年の春にまた訪れるまで待ってやるから今回は帰ってやるよ」的なことを恩着せがましく言って帰るのですが、これにもオチがありまして、後のペリーの日記にだけは書き残されているのですが、ペリーの艦隊には一ヶ月以上の滞在に必要な食料が既に残っていなかった為の帰国であったようなので最後まで喰えない男です。

もしも当時の日本が世界情勢に詳しかったら

ペリーの艦隊の持つ食料が底を尽きそうだと日本が気付いていればお得意ののらりくらり戦法で、いつの間にか一月以上の時間が経過してペリーは歯ぎしりしながら帰ったでしょうし、更に言えば日本が国際情勢にもっと明るければアメリカとイギリスが競合関係にあることも認識として出来たでしょうし、更に言えばアジアに於けるイギリスの支配分布と国際法上の兼ね合いからアメリカが日本と交戦状態に入ればイギリスは中立宣言を行うことで合法的にアメリカをアジア航路内の補給を断つ事で締め出すことが出来ます。これを日本が知っていれば交渉の進め方は全く違ったものになったのではないかと想像します。

何れにせよ、今回の交渉は正にペリーと日本による狐の化かし合いといった点が強かったように見えます。しかし情報量はペリーに分があった為に日本が良いように扱われてしまったといったというのは否めない所であったように思えます。

黒船(サスケハナ)

published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association)

それでは今回この辺で