時宜を得た西郷隆盛の少年時代

西郷隆盛像 幕末

西郷隆盛は薩摩で島津斉彬と生涯対立することになる島津久光とも出会います。

当時の薩摩藩の上層部は日本の中で首都である江戸から遠い薩摩という辺鄙とも言える薩摩の地では最先端であった海外の情報を知っていました。これには薩摩が支配下に置く琉球が関係しています。薩摩は琉球を通じて清とも繋がりを持っており阿片戦争の情報も薩摩に入って来ています。また、阿片戦争の経緯としては当時の清とイギリスとの貿易はイギリスが中国から大量の茶や陶器を輸入、一方の中国は一部の富裕層向けの製品を輸入するだけであった為にイギリスの大きな輸入超過状態となりました。そこでイギリスは自国の植民地であるインドで生産したアヘンを中国に売りつけてバランスを取るという暴挙に出るのですが、当然の措置として清はこれを禁止します。この措置に関して両国のやり取りが発展したことで戦争へと至るのですが問題はイギリスが持つ最新兵器の威力です。イギリスは開戦時たまたま近くに居た東インド艦隊の序列最下位の軍艦2隻だけで清国船団を壊滅させました。更に琉球にはフランスや英国が自国の要求を受け入れるように迫ることが度々起きていました。琉球という地は日本国内では最南端の僻地に過ぎないのですが欧米や中国、東南アジアから見れば日本の入り口となっていた為に、そこを支配下に置く薩摩は江戸幕府や諸藩に先駆けて海外からの脅威に曝される事となり、それがやがて西洋諸国と結び付く事となりました。そういった状況下の中で斉彬は蘭学を学んでいたことからも薩摩藩の中で次期藩主という以外にも重要な役割を担って行く事になります。
薩摩藩は幕府からも睨まれているので平和の時代が長く続く江戸時代の今でも藩の人間の四人に一人を武士として抱え、更には海外の攻勢に怯えなければならないという事情から兵器開発費用と相まって領民は重税に苦しんでいます。

英雄になる為には時と場所と人の三つを揃える必要があると思います。
西郷隆盛は時として、幕府の力が弱まり欧米列強と渡り合う必要が有り変革が求められる時代。薩摩という海外からの玄関口と言える場所に生を受けた事。最後に島津斉彬という最高の後見人を得ることが出来、他にも薩摩藩内からは初代内務卿となる大久保利通、枢密顧問となる海江田信義、宮内大丞となる村田新八、初代鹿児島県令となる大山綱良といった人を得ることが出来た。
西郷隆盛は以上のように英雄となる三条件を揃えます。
少年時代の西郷が城山を見る目は希望に満ちたものであった筈です。