秀吉はサンフェリペ号の積荷を回収する口実としてバテレン追放令を口実として利用していますが、そもそもバテレン追放令とは何なのでしょうか?
バテレン追放令とは
秀吉はもともとキリスト教に対して織田信長の方針を継承して容認していました。
実際に秀吉はイエズス会宣教師ガスパール・コエリョと会いイエズス会に対して布教の許可証を発行したりと便宜を図ったりもしています。
他にも「日本史」を書いた宣教師ルイス・フロイスは聚楽第で秀吉から朝鮮征伐の構想を聞かされる等しているので、秀吉自身もキリスト教に対して悪い感情を持ってはいなかったように見えます。
これが変わるのは秀吉が九州平定後の筑前箱崎に滞在した時です。
この時に長崎がイエズス会領となり要塞化されている事を知らされ大いに驚く事となります。
元々、長崎の領主はキリシタン大名である長崎純景でしたが反キリスト勢力の襲撃に悩まされ、同じくキリシタン大名であり岳父でもある大村純忠に薦められてイエズス会に長崎を寄進します。
寄進された長崎はイエズス会の拠点と見做されるようになり、イエズス会は住民と兵士の数を増やして長崎の町を大きくするように努めています。
また、各自に兵器を持たせる為に武器や大砲を買い集めます。この事を他勢力が「イエズス会派たちは長崎を要塞化してルソンよりエスパーニャの援軍を呼び寄せ日本の支配に対して抵抗しようとしている」と秀吉に報告したことがバテレン追放令の一因になったと言われています。
また長崎要塞化の指示を出したヴァリニャーノ自身も愚かな指示であったと思ったのか後に買い集めさせた武器・弾薬類の後始末を密かに行う事となりますが、史実として伝わっている所を見ると秘密裏には終われなかったようですね。
しかし要塞化を行うというのは戦争の準備をしていると捉えられ兼ねず、余りにも思慮と配慮が欠けていたと言わざるを得ません。
天正14年 6月19日 (1586年)
秀吉はポルトガル側通商責任者ドミンゴス・モンテイロとイエズス会日本準管区長ガスパール・コエリョに宣教師の退去と貿易の自由を宣言する文書を手渡し宣教の制限を掛けました。
但し、これを機に宣教師に危害を加える者には処罰するとも言っており、キリスト教へ強制的に改宗することは禁じても個人が自分の意思で信仰することは自由だとしています。
また大名が信徒となることは秀吉の許可を必要とした。
そして長崎はイエズス会から取り上げ天領とされました。
兎にも角にもイエズス会での活動によって得られたものは全て取り上げられました。
そして天正15年6月19日
キリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書が発布されました。
先の話し合いで手打ちとならなかった理由については諸説あります。
バテレン追放令が発布された理由
1.キリスト教徒が一向一揆のように反乱を起こすことを恐れた為、
キリスト教以外でも以前に一向一揆は信長も苦しめられていましたし、家康の忠臣である本多正信も同様に一向一揆に参加して家康に刃を向けた過去があります。
また、一向一揆の殆どは身分の低い者が殆どだったものがキリスト教徒は大名にまで広がっているという点も大きかったようです。
また、ガスパール・コエリョは秀吉にスペイン艦隊が自分の指揮下にあるように誇示した為とも言われています。コエリョに関しては同じイエズス会の者からもコエリョの軽率な行動を非難する声が挙がっており、実際に問題のある人だったようです。
2.神道・仏教への迫害を好まなかった為
大名である有馬氏や大村氏などの様に領民を強制的にキリスト教徒にしたり神社仏閣を破壊するといった事が大名単位で行われていた。
またポルトガルが日本人を奴隷として売買していた事への関与を疑われていたとも言われていますが、これにイエズス会は寧ろ止める為に動いていたようです。しかし大名が領民を無理矢理改宗というのは無茶な話です。今で例えるなら会社の社長だか部長だかが自己啓発セミナーに嵌って社員や部下たちにセミナー受講を自費で受けて来るのを義務付けられるようなものでしょうか。しかも強制する本人は良かれと思ってやっているので尚更に性質が悪い。おまけにライバルの寺社仏閣には襲撃を掛けて来いと命令される訳ですからヤクザと一緒です。
当時の領民としては、まったくキリストだかキリギリスだか知らないけど勘弁してくれよといった所だったと思うのでバテレン追放令にホッと胸を撫で下ろしている人も多そうです。
これらの追放令を受けたイエズス会は以後、公然の布教活動を控えます。秀吉も南蛮貿易の実利を見ているので京都の教会を破壊して長崎の公館と教会堂を取り上げて以降サンフェリペ号事件まで弾圧は行っておらず、宣教師も各地に分散して潜伏した為バテレン追放令は空文化する事となり実質的に形骸化することとなりました。