真田丸感想【番外編】関が原の戦いについて

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真田丸本編の中で関が原の戦いが50秒ほどで終わってしまったので今回は関が原の戦いについて書いてみたいと思います。

北に伊吹山、西南に松尾山、東南に南宮山と山に囲まれた平原。
現在の岐阜県不破郡関が原、ここで嘗て関ヶ原の戦いと呼ばれる天下分け目の大戦が行われました。

戦ったのは次の天下を狙う徳川家康の東軍と豊臣政権を守る石田三成の西軍。
東軍に付いた大名の総石高は約八百万石、兵数約八万八千。
西軍に付いた大名の総石高は約七百万石、兵数約八万三千。
両軍の戦力は拮抗していました。
しかし両軍の戦いは六時間程度で終わりました。

決戦前日九月十四日
家康が東海道を西上して美濃赤坂に到着。
これに動揺する西軍の士気を高める為に島左近は杭瀬川で東軍の中村一栄・有馬豊氏隊を挑発して中村の家老である野一色頼母を討ち取る等の戦果を上げます。

家康は夜になると軍議を開き三成の籠もる大垣城を無視して佐和山城を落とし、そのまま大阪城へ進むという情報を流したと言います。

三成はこの情報を得た為に当初は大垣城に籠城して時を稼ぎ大阪から来た毛利軍と挟み撃ちにする予定を崩して関が原に陣を敷きます。
また三成は当初、戦場中央付近にある松尾山に毛利勢を入れようと計画していましたが、ここに小早川秀秋が現われると先に陣取っていた伊藤盛正を追い出して入城してしまいます。

家康は三成が大垣城を出た報せを受けると関が原の桃配山に陣を敷きます。
そして家康に朗報が届きます。以前から東軍に内通していた吉川広家が毛利の所領安堵と引き換えに兵を動かさない事を約束します。

三成は東軍を囲むようにして鶴翼の陣を東軍を囲むようにして敷いて関が原における高所の大半を抑えることに成功します。そして自らは小雨の降る中を各陣地を訪ね明日の動きを打ち合わせます。
家康は陣形に於いて本来ならば圧倒的に不利な位置に布陣していますが鶴翼の陣の翼にあたる部分の三成側に内応者が居た為に家康は布陣に於いても劣位とは言い難い状況となっています。

関ヶ原の戦い布陣図

関ヶ原の戦い布陣図 (水色:三成方、オレンジ:家康に内応している隊、赤:家康方)wikipediaより引用

慶長五年(1600年)九月十五日の早暁

先陣を切った福島正則率いる軍が宇喜田隊への銃撃を切っ掛けとして東西両軍の戦いの火蓋が切って落とされます。

福島と宇喜多両軍の戦いは一進一退の攻防を繰り返す激戦となります。

笹尾山に陣を敷く石田三成は黒田長政、細川忠興、加藤嘉明、田中吉政等の倍以上の兵とぶつかる事となりますが、高所という地の利と島左近、蒲生頼郷、前野忠康(舞兵庫)等の奮戦によって持ち堪えていました。

この中で島左近は百人余りの兵を率いて黒田隊に先陣を切って襲い掛かります。士気の低さが問題となっている西軍の実状を知っており三成を勝たせたいと願う男です。自ら先陣を切る事によって弱腰の兵たちを鼓舞させたいと考えたのではないかと思います。そして左近は黒田隊の先鋒隊と睨み合いになりますが、鬼左近の異名の通り馬上で槍を振るう気迫によって黒田隊を押し込んで行きます。しかし黒田の迂回した鉄砲隊の銃弾によって左近は倒れ自陣の柵の内へ担ぎ込まれます。ですが、柵を破って敵が本陣に迫ると左近は再び槍を持って応戦。遂には力尽きます。(他に小早川秀秋の東軍寝返りによって左近は再び出陣、正面の黒田長政軍及び田中吉政軍に突撃した際の銃撃により討ち死したという説もあり)

何れにせよ左近の最後は東軍諸将の間でも語り草となるものとなり、その活躍は勇猛さに溢れただけではなく狂気の域に達していたと言われ、特に左近を討ち取った黒田長政の兵たちは戦の後にも左近の悪夢にうなされる程の恐怖を味合わされ、その時の恐怖を語った回顧談に依ると「左近の名を聞くと、儂は今でも身の毛がよだち、気分が悪くなる。あのとき、鉄砲で撃ち掛けなんだら、われらが首は左近めの手にわたっていた。いま、ここにこうしていることは、とうていできなかったであろう」(「故郷物語」)そう言うと身震いしたという。

正に鬼左近と呼ばれる異名の通り働きであったようです。

開戦してから二時間後程に三成は参戦していない武将に参戦を促し、島津には応援要請を出します。

毛利秀元は家康本陣の後ろにある南宮山に布陣しますが、先陣を勤める吉川広家が出撃に反対して道を塞ぎ閉じ込められます。
その為、毛利軍の後ろに陣を構える長宗我部盛親の出陣要請に「兵士に弁当を食べさせている」と答えた為、当時の秀元の官位が宰相であったことから後に「宰相殿の空弁当」などと揶揄されることとなります。

島津義弘は使者が下馬せずに要請するのは失礼だと要請を拒否。
元々、三成は島津家の領地経営などに関わっており義弘との関係は良好なものであった筈なのですが、兄の義久は豊臣と距離を置くスタンスを取っており、島津家は二重構造になっています。これが光成にとって不運として働きます。

関が原の西南にある藤川台に布陣した大谷吉継は病の為に失明状態であるにも関わらず輿に乗り兵を指揮。午前は東軍の藤堂高虎、京極高知と激突。
正午頃に松尾山に布陣していた小早川秀秋一万五千が裏切り吉継隊を攻撃。しかし吉継は秀秋の裏切りを予め想定しており、これを六百の兵で迎え撃ちます。この戦いも激戦であり東軍から秀秋の監視役として派遣された奥平貞治が巻き込まれて重傷(後に死亡)を負った事からも伺えます。
吉継は裏切った秀秋を押し返す程の活躍を見せますが、秀秋に加えて更に脇坂、朽木、小川、赤座の四隊四千二百人が裏切り吉継に攻撃を仕掛けます。この為、吉継は前から東軍、側面は内応諸隊、背後からは秀秋の攻撃を受ける包囲網の中で隊は壊滅した為に自害。享年四十二。

徳川の旗本を中心とする徳川本隊は、秀秋の裏切りと吉継隊の壊滅により動き出します。
その頃、宇喜田隊は小早川隊の攻撃を凌いでいましたが、やがて三倍以上の数となった東軍勢の前に敗れ、秀家は敗走。これに巻き込まれた小西隊も壊滅して小西行長も敗走。三成は東軍の総攻撃に粘り続けますが島左近、蒲生頼郷、前野忠康(舞兵庫)等、重臣達の討ち死にと共に壊滅。三成は伊吹山方面へ敗走した。
島津勢も東軍に囲まれるも後に島津の退き口と言われる敵陣の中を突っ切っての逃亡を敢行、その数を僅か八十に減らして撤退に成功。
この西軍の壊滅する様を見た南宮山に布陣していた毛利軍は戦わずに撤退。
長宗我部、長束、安国寺恵慶等も撤退。

関が原の戦いは石田三成の敗北に終わります。

結局のところ三成の敗因とは何だったのか?

結果だけ見るならば緻密な作戦を遂行しようとした光成に家康の老獪さが勝った構図です。
また、家康は三成との戦い全般にも言える事ですが、関ヶ原の戦いにおいても主に戦っているのは豊臣の家臣の大名同士である点が救いの無さであり、家康の怖さがあるように思えます。

しかし三成が敗れた原因はそれだけではないと思いました。
三成は家康に対峙するにあたって各大名達に対して秀吉から受けた恩義を基にした家康という簒奪者から豊臣を守る為の戦いとしています。
一方の家康は西軍を滅ぼした後に得た領地を東軍に付いた大名に配分する事を約束しています。

また三成が目指したものは豊臣家による中央集権国家です。
家康は大名達に領地の安堵と自治を認めた共和制に見える地方分権を提示しています。
(まぁ、見えるだけなのが狸たる所以でしょう)

詰まる所、秀吉への恩義と豊臣家の中央集権国家体制による安定と、実際的な報酬と独立自治権のどちらを選ぶのかと問われ、後者を選ぶ人間が多かったというのが関が原の戦いの結果として表れていたのではないかと思えました。

結果として家康は幕藩体制と云われる地方分権を尊重した国家を作り上げましたが、土台には豊臣政権が作り上げた制度を敷いており、その多くを三成は作りあげたとも言われています。

やはり石田三成という男は調べれば調べる程に興味深くなります。恐らく三成は豊臣政権が続いた場合の構想を持っていたのではないかと思います。この男の築いた日本も見てみたかったと思わずにはいられません。

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