関ヶ原の戦いについて

日の出 歴史


今回は関ヶ原の戦いについて書いてみたいと思います。

慶長5年9月15日(1600年10月21日)

北に伊吹山、西南に松尾山、東南に南宮山と山に囲まれた平原。
現在の岐阜県不破郡の関ヶ原で関ヶ原の戦いと呼ばれる天下分け目の戦が行われました。

戦ったのは次の天下を狙う徳川家康の東軍と豊臣政権を守ろうとする石田三成の西軍(総大将は毛利輝元)
東軍に付いた大名の総石高は約八百万石、兵数約八万八千。
西軍に付いた大名の総石高は約七百万石、兵数約八万三千。
両軍の戦力は拮抗していました。
しかし両軍の戦いは六時間程度で終わってしまいました。
当時、戦の様子を見ていた多くの人は余りの呆気なさに驚いたのではないでしょうか。

決戦前日九月十四日

徳川家康が東海道を西上して美濃赤坂に到着。
これに動揺する西軍の士気を高める為に島左近は杭瀬川で東軍の中村一栄・有馬豊氏隊を挑発して中村の家老である野一色頼母を討ち取る等の戦果を上げます。

徳川家康は夜になると軍議を開き石田三成の籠もる大垣城を無視して佐和山城を落とし、そのまま大坂城へ進むという情報を流します。

三成はこの情報を得た為に当初は大垣城に籠城して時を稼ぎ大坂から来た毛利軍と挟み撃ちにする予定を崩して関ヶ原に陣を敷きます。
また三成は当初、戦場中央付近にある松尾山に毛利勢を入れようと計画していましたが、ここに小早川秀秋が現われて先に陣取っていた伊藤盛正を追い出して入城してしまいます。

徳川家康は石田三成が大垣城を出た報せを受けると関ヶ原の桃配山に陣を敷きます。
そして家康に朗報が届きます。
それは以前から東軍に内通していた吉川広家が毛利の所領安堵と引き換えに兵を動かさない事を約束するものでした。

石田三成は東軍を囲むようにして鶴翼の陣を東軍を囲むようにして敷いて関ヶ原における高所の大半を抑えることに成功します。
そして自らは小雨の降る中を各陣地を訪ね明日の動きを打ち合わせます。
家康は陣形に於いて本来ならば圧倒的に不利な位置に布陣していますが鶴翼の陣の翼にあたる部分の石田三成側に内応者が居た為に家康は布陣に於いても劣位とは言い難い状況となっています。

関ヶ原の戦い布陣図

関ヶ原の戦い布陣図 (水色:三成方、オレンジ:家康に内応している隊、赤:家康方)wikipediaより引用

慶長五年(1600年)九月十五日の早暁

先陣を切った福島正則率いる軍が宇喜田秀家隊への銃撃を切っ掛けとして東西両軍の戦いの火蓋が切って落とされます。
福島正則と宇喜多秀家両軍の戦いは一進一退の攻防を繰り返す激戦となりました。

笹尾山に陣を敷く石田三成は黒田長政、細川忠興、加藤嘉明、田中吉政等の倍以上の兵とぶつかる事となりますが、高所という地の利と島左近、蒲生頼郷、前野忠康(舞兵庫)等の奮戦によって持ち堪えていました。

この中で島左近は百人余りの兵を率いて黒田隊に先陣を切って襲い掛かります。
士気の低さが問題となっている西軍の実状を知りながら石田三成を勝たせたいと願う男です。
自ら先陣を切る事によって弱腰の兵たちを鼓舞させたいと考えたのではないかと思います。
そして島左近は黒田隊の先鋒隊と睨み合いになりますが鬼左近の異名の通り馬上で槍を振るう気迫によって黒田隊を押し込んで行きます。
しかし黒田の迂回した鉄砲隊の銃弾によって左近は倒れ自陣の柵の内へ担ぎ込まれます。
ですが、柵を破って敵が本陣に迫ると左近は再び槍を持って応戦。遂には力尽きます。(他に小早川秀秋の東軍寝返りによって左近は再び出陣、正面の黒田長政軍及び田中吉政軍に突撃した際の銃撃により討ち死した説有り)

何れにせよ左近の最後は東軍諸将の間でも語り草となり、その活躍は勇猛さに溢れただけではなく狂気の域に達していたと言われます。
特に左近を討ち取った黒田長政の兵たちは戦の後にも左近の悪夢にうなされる程の恐怖を味合わされました。
左近のことは当時の回顧談で「左近の名を聞くと、儂は今でも身の毛がよだち、気分が悪くなる。あのとき、鉄砲で撃ち掛けなんだら、われらが首は左近めの手にわたっていた。いま、ここにこうしていることは、とうていできなかったであろう」(「故郷物語」)そう言って兵は身震いしたといいます。

正に鬼左近と呼ばれる異名の通り働きです。

開戦してから二時間後程に石田三成は参戦していない武将に参戦を促します。

毛利秀元は家康本陣の後ろにある南宮山に布陣。
徳川家康を背後から襲撃することを、先陣を勤める吉川広家が出撃に反対して道を塞ぎ閉じ込められます。
味方からの出陣要請に対しては「兵士に弁当を食べさせている」と言い訳したために当時の秀元の官位が宰相であったことから世間では「宰相殿の空弁当」などと揶揄されることとなります。

島津義弘は使者が下馬せずに要請するのは失礼だと言って要請を拒否。
石田三成は島津家の領地経営などにも関わっており義弘との関係は良好なものであった筈なのですが兄の島津義久は豊臣と距離を置くスタンスを取っており島津家は権力が二重構造になっています。
これが三成にとって不運として働いたのではないでしょうか。

一方で関ヶ原の西南にある藤川台に布陣した大谷吉継は病の為に失明状態であるにも関わらず輿に乗って兵を指揮。
午前は東軍の藤堂高虎、京極高知と激突。
正午頃に松尾山に布陣していた小早川秀秋一万五千が裏切り大谷吉継隊を攻撃。
しかし大谷吉継は小早川秀秋の裏切りを予め想定したと言われており、これを六百の兵で迎え撃ちます。
この戦いも激戦でした。
それは東軍から小早川秀秋の監視役として派遣された奥平貞治が巻き込まれて重傷(後に死亡)を負った事からも伺えます。
大谷吉継は裏切った秀秋を押し返す程の活躍を見せますが、小早川秀秋に加えて更に脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保の四隊四千二百人が裏切り大谷吉継に攻撃を仕掛けてきます。
大谷吉継は前面からは東軍、側面からは家康に内応した諸隊。
更に背後からは小早川秀秋の攻撃を受けるという包囲網の中で部隊が壊滅した為に自害。
享年四十二。

徳川の旗本を中心とする徳川本隊は、秀秋の裏切りと吉継隊の壊滅により動き出します。
その頃、宇喜多秀家は小早川秀秋からの攻撃を凌いでいましたが、やがて三倍以上の数となった東軍の軍勢の前に敗れ敗走。
これに巻き込まれた小西行長の部隊も敗走。
石田三成は東軍の総攻撃に粘強く抵抗を続けますが島左近、蒲生頼郷、前野忠康(舞兵庫)等、重臣達の討ち死にと共に壊滅。
三成は伊吹山方面へ敗走しました。
島津勢も東軍に囲まれることとなりますが後に島津の退き口と言われる敵陣の中を突っ切っての逃亡を敢行。
その数を僅か八十に減らして撤退に成功。
この西軍の壊滅する様を見た南宮山に布陣していた毛利軍は戦わずに撤退。

長宗我部盛親、長束正家、安国寺恵慶等も撤退。

関ヶ原の戦いは石田三成の敗北に終わります。

結局のところ三成の敗因とは何だったのか?

西軍の布陣自体は見事なものであったと思います。
当初の家康を挟み撃ちにするという目論見こそ崩れていますが、決戦当日には西軍の殆どを高地に配置させて地の利を取っています。
小早川秀秋が裏切っても持ち堪えられるものであったのではないでしょうか。
おそらく小早川秀秋が裏切ることを三成は知っていたと由縁となっているのでしょう。
事実、小早川秀秋は家康の勝利を確信出来ずに踏み止まる様子を見せています。
もしも毛利が予定通り進軍して家康の背後を取る格好となっていれば、この戦いが西軍勝利で終わっていた可能性だって十分あります。

結果だけ見るならば緻密な作戦を遂行しようとした三成に家康の老獪さが勝った構図です。
また家康は他の三成との戦い全般にも言える事ですが、関ヶ原の戦いにおいても主に戦っているのは豊臣の家臣である大名同士である点が救いの無さであり家康の怖さであるように思えます。

しかし三成が敗れた原因はそれだけではないと思いました。
三成は家康に対峙するにあたって各大名達に対して秀吉から受けた恩義を基にした家康という簒奪者から豊臣を守る為の戦いとしています。
一方の家康は西軍を滅ぼした後に得た領地を東軍に付いた大名に配分する事を約束しています。

三成が目指したものは豊臣家による中央集権国家です。
家康は大名達に領地の安堵と自治を認めた共和制に見える地方分権を提示しています。
(この辺が家康が狸たる所以でしょう)

詰まる所、大名達は秀吉への恩義と豊臣家の中央集権国家体制による安定と、実際的な報酬と独立自治権のどちらを選ぶのかと問われた答えが関ヶ原の戦いの結果なのでしょう。

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