千利休が切腹に至った理由について思うこと

利休という人について

千利休は大永2年(1522年)和泉国の堺に生まれました。
幼名は田中与四郎、南宗寺で修業を行い宗易という法名を授かり、他に抛筌斎(ほうせんさい)とも呼ばれていました。
利休という名は居士号という出家せずに家にあって修行を重ねる仏教者へ与えられる呼び名となり、与えられた理由は天正13年(1585年)10月に宮中参内するにあたって町人の身分では入れなかった為に僧籍として入れるよう正親町天皇から与えられたものです。従って利休の名乗りは晩年63歳頃からのもので彼はその生涯に於いての殆どは宗易と名乗り過ごしていました。

利休は堺の商家に生まれ彼自身も商人としての顔を持ちます。ルイス・フロイスは境市民の気質を自著である「日本史」の中で傲慢で気位の高いことは非常なものと語っています。

利休は若くから茶の湯に親しんでいました。
織田信長が堺を直轄地とした際に茶頭として雇われ本能寺の変から以降は秀吉に仕えました。
秀吉から信任されて聚楽弟に屋敷を構え三千石の禄も得ていました。

しかし天正19年に入り豊臣秀吉から堺に蟄居を命じられます。
利休の蟄居期間は弟子の前田利家や古田織部、細川忠興たちが利休助命の為に奔走しますが、その願いは叶いませんでした。
蟄居期間が終わると利休は切腹の為に京の聚楽弟に呼び戻されます。
その際、利休の弟子たちが利休奪還の動きを取る恐れがあった為その周囲は上杉景勝の兵三千人が取り囲みました。
天正19年2月28日 聚楽屋敷内で切腹。享年70。
利休の首は一条戻橋で大徳寺山門に飾られた木像に踏ませる形で晒されました。

千利休切腹の理由は諸説あります。
曰く、秀吉と茶道の考え方について対立が生じた為
曰く、秀吉から利休の娘を妾に差し出すよう要求されたものを拒んだ為
曰く、大徳寺(金毛閣)楼門の2階に利休自身を象らせた雪駄履きの像を設置。その下を秀吉に通らせた為

ドラマ「真田丸」では楼門に木像を設置した説が採用されていました。
論法としては、利休の像が飾られた山門を秀吉が通るということは利休の股の下を通ったという事であり、それは秀吉の権威を貶めるものであるというものです。
利休切腹後にその首が木像に踏ませる形を取られたという事実から考えると、大徳寺の2階に設置された利休像の下を通らされた意趣返しであったと考えるのが腑に落ち易いように思えます。

それに加えて茶道の考え方について両者の考えは著しく異なっています。
秀吉は派手好きで黄金の茶室を作らせる華美を求めるもの。
千利休は侘び寂びと言われる物の充足でなく限った中で本質を求めるもの。
両者の求めるものは足し算と引き算の如く真逆である印象を受けます。
且つ利休は秀吉の茶道の顧問のような立場にいるため秀吉が茶道について行動したり何か製作を行うにあたって利休が関わらない訳にはいきません。
繰り返しになりますが両者の茶道の考え方が真逆の両者が茶道についてやり取りを続ければ共にフラストレーションが溜まっていったであろうことは想像に難くありません。
そういった関係性の中で生じた悲劇の行き着いた先が利休切腹だったのではないでしょうか。

現在も大徳寺では利休を偲ぶ利休忌が営まれ続けています。