1596年8月28日(文禄4)
一隻の船が四国土佐沖に漂着します。
その船は元々1596年7月に船長マティアス・デ・ランデーチョが指揮してガレオン船サン=フェリペ号はフィリピンのマニラを出航して太平洋を横断してメキシコを目指していたものです。
乗船していたガレオン船は大西洋を航行する為の遠洋航海用の船種です。
ヨーロッパ諸国で使われる事の多い船速が速く操船が容易である代わりにやや安定性に欠けるという短所を持ったものでした。
サンフェリペ号は東シナ海で一度ならず台風に襲われるという不運に遭遇します。
その際にはメインマストを切り倒して風の威力を弱めた上にマニラで仕入れた幾つかの積み荷を海に投げ捨てることで、どうにか沈没だけは避けているといった態であったようです。
それは或いは航海するというよりかは漂流していたと言った方が正しかったかもしれません。
サンフェリペ号は日本の四国の土佐沖へと漂着します。
そこから土佐藩の長宗我部元親によって浦戸湾内に曳航されることになりますが湾内の砂州に座礁する事となります。
船員達は長浜に留め置かれる事となりました。
そこで船員達で協議した結果、秀吉に身柄の安全と船の修復許可を得る為に使者を出す事にします。
しかし使者は秀吉と面会する事が出来ませんでした。代わりに豊臣政権五奉行の一人である増田長盛が浦戸にやって来ます。
長盛は船員全員の名簿を作成して残った積み荷の一覧を作成して船員達を町に幽閉すると更に金品を差し出すよう命令します。
そして長盛は「スペイン人は海賊である。ペルー、メキシコ、フィリピンを制圧したように日本も武力制圧する為に測量に来た事を都にいるポルトガル人等から聞いている」といった内容の報告を秀吉に行います。
元々スペインの総督は日本への遭難者を救助すると聞かされており、船員達もそうなると考えていました。
しかし船員たちは日本から海賊と見られており寧ろ懲罰の対象となっていることを知り驚き憤ります。
船員の中の一人で航海長のデ・オランディアは長盛に対して世界地図を示しながらスペインという国が広大な領土を持つ強大な国家であることを伝え、そして日本という国が如何に小さな国であるのかを知らしめることで考えを改めさせようとします。
しかし長盛は積荷と船員の所持品を没収すると航海日誌等の書類は破棄しました。
イスパニアは当時、多くの国を侵略していたので彼等の捉え方が間違えているかと言えばそうとも言い切れない所があります。
当時、広く世界に航海する船にはキリスト教の司祭が乗り込み、辿り着いた地で布教活動を行っていました。
スペインは世界中に広大な領土を持っていましたが、それは宣教師を世界中に派遣する事で土地の民を教化してスペインの協力者とした上で兵力を持って制圧するという手順が用いられていたからだと言われています。
しかし宣教師が来ることは同時に貿易も行われることになるので秀吉はバテレン追放令を出しはしましたが強硬な弾圧は行っていませんでした。
但し、日本国内で初めにキリスト教の布教を始めたのはイエズス会でしたが、バテレン追放令から都周辺部での活動は自粛していました。
しかしフランシスコ会は積極的に布教活動を行っており、これが秀吉の怒りを買う要因になったとも言われています。
実際に二十六聖人事件で磔にされたのはフランシスコ会会員7名、信徒14名、イエズス会関係者3名でしたが、フランシスコ会で磔にされたのはスペインのアルカンタラ派の者達でした。
また、石田三成はイエズス会関係者は処刑から除こうとしていたとも言われており、同じキリスト教の中でも扱いは一様ではありませんでした。
荷物を取り上げられた船長ランデーチョは秀吉に抗議に向かおうとしますが長宗我部元親の許可が下りず、ようやく都に上ることが出来た時、仲介を頼もうと考えていたフランシスコ会の会員達は既に捕まった後でした。
その後にサンフェリペ号の修繕が許されます。
そして1597年4月に浦戸を出航。5月にマニラに到着すると、そこでスペイン政府によって事件の調査が行われます。
1597年9月にスペイン使節としてドン・ルイス・ナバレテ等が秀吉の元へ送られ、サンフェリペ号の積荷の返還と磔にされた宣教師の遺体引渡しを求めましたが叶いませんでした。
このようにサンフェリペ号事件は後味の悪い結末を迎える事となりました。
また豊臣政権で発せられたバテレン追放令は江戸幕府にも受け継がれ、やがて鎖国へと繋がっていく事となりました。
続きます。