キリスト教の発祥について

先日はユダヤ教について書きましたので今回はキリスト教についてとなります。
キリスト教は世界最大の宗教です。その信徒は世界人口のほぼ三分の一であると言われます。

ユダヤ教と同じく唯一神を崇めるキリスト教

先ず、キリスト教とユダヤ教の言う神は同一です。と言うかイスラム教の神も同一です。
筆者は異なる宗教の神が同一であることに驚きました。
しかし調べてみると同じキリスト教であるカトリックとプロテスタント間での対立も存在しており、それは同じ唯一神を崇めるキリスト教とユダヤ教、そしてイスラム教との間でも同様です。
近親憎悪とはよく言ったもので、同一の神を崇めるが故に、その異なりは許すことの出来ない深刻な対立にならざるを得ないのかもしれません。
筆者の卑近な例を思い出すと、学生の頃に双子の村上君の家に遊びに行ったら、その二人が喧嘩していたので慌ててケンカを止めに入って理由を尋ると理由としてお互いに「顔がムカつく」と言われて(同じ顔だろ)と口には出しませんでしたが心の中でつっこんだことを思い出します。しかし、人というのは自分と高い類似性の者が存在した場合、その存在に対して強い親愛を抱くか、同じく強い憎悪を抱くかのどちらかのようです。

ユダヤ教から派生したキリスト教

キリスト教の発祥はユダヤ教であり、当初のキリスト教はユダヤ教の一分派という見られ方をしていたようです。
キリスト教の聖典である「聖書」はキリストの教えと活動を記した「新約聖書」と古代のイスラエル人とその子孫であるユダヤ人によって書かれた「旧約聖書」に分かれます。
他に考え方としては旧約聖書のエレミヤ書にある「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる」と記述された新しい契約がイエスを通じて行われたとしてイエス以降を「新約聖書」と呼ぶにようになった言われます。
因みにユダヤ教では旧約聖書の部分を聖典として扱っています。
(ユダヤ教の人たちは自分たちの聖典が旧約聖書と呼ばれることに反感を抱きそうだと思うので、この部分をどう扱っているのか調べた所、単に「聖書」と呼び聖典として扱っているそうです)

キリストについて

ギリシア語で救世主は「キリスト」
筆者はイエス・キリストを名と姓の関係であると思っていたのですが違います。
従ってイエス・キリストの正確な意味は救世主であるイエスです。

イエスの生まれついて

イエスは紀元前の4年か6年頃に生まれたと言われています。
ある日の事です。ガリラヤ湖南西の町、ナザレに暮らす大工のヨセフとその婚約者のマリアの前に、大天使ガブリエルが現れ、マリアにメシアが宿ったと受胎告知を行います。その後マリアはヨセフの故郷であるベツレヘムでイエスを出産したと言われます。
旧約聖書に於いてメシアはダビデの子孫で彼のいた村であるベツレヘムから出ると考えられています。
イエスが誕生してから幼少期や少年期についての資料は乏しく、残された多くのものは洗礼者ヨハネの洗礼を受けた後に宗教活動を始めた時期からが殆どのようです。
その後ヨハネはガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスによる処刑されてしまいます。これを受けてイエスは故郷のガリラヤに戻り宣教活動を始め、そこで様々な奇蹟を起こしたと言われています。

イエスの教え

ある時イエスは「最も重要な掟は何か?」と尋ねられます。
イエスは旧約聖書の下記を引用して答えたそうです。

あなたは心を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

引用元:ー申命記6・5

自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。

引用元:ーレビ記19・8

つまりは神へ捧げる愛と隣人への愛が重要であると答えたのだそうです。

そしてある日、イエスは自分の弟子が安息日に畑の麦の穂を摘んだことを咎められます。
これにイエスは次のように答えます。

安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある

引用元:マルコ福音書2・27-8

法のために人があるのではなく法が人のためにあるという考えです。
これはユダヤ教とキリスト教との違いともなっており、ユダヤ教が聖書の教えに従い律法を重視した行動を求めることに対してキリストは神への信仰と隣人への愛が存在を前提として律法が存在するという考えであり二つの明確な違いとなっているのだろうと思います。

キリスト教は誰が信じた

ユダヤ教の教えは律法を重視した行動に依っている部分が強く、これは排他性にも繋がっていました。例えば生きる為に安息日にも働かなければならない労働者や姦淫の罪を生業とする娼婦といった人達を罪人と蔑視していました。こういった社会的に虐げられていた人達がキリスト教を信じました。
当時のキリスト教はユダヤ教に対して律法主義が過ぎていると批判しているようにも見えそうです。他にマーケティング的観点に立てばイエスの教えはユダヤ教がターゲットとしていなかった層をキャッチアップしていたとも言えそうです。

しかし、この部分はイエス自身も宗教的に誰も手を差し伸べることのない人たちを見て見るに見かねてといった部分もあったのではないでしょうか。

私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである

引用元:ーマルコ福音書2・17

上記の言葉を残しています。
人は自然と勝者と敗者に分かれ、やがて勝敗は決められたものとなります。それは人に差別を生み出し、やがて階級社会へと繋がって行くのでしょう。そうなれば人は生まれた瞬間に選別を受ける事となり、ある人は生まれながらに栄光を約束され、ある人は一生涯を罪人と虐げられて過ごす事となります。
後者に生まれた人達にとってイエスの教えは正に救いと映ったのではないかと思います。
それは多くの人に信じられることによって人々に公平性を生み出し本来であれば生まれの為に無為に死んでいくことが宿命づけられた人達の中に生まれた有為の人を活かす事にも繋がり社会全体を活性化させていくことにもなったのでしょう。
個人的に筆者は信じる神を持ちませんが、人類の文明発展のために宗教が欠かせないという考えには頷かざるを得ません。
また、当時の人々にとって宗教とは現在以上に大きな心の縁であったと考えると、今まで蔑視を受けて見放されてきた人達にとってイエスの教えは差し伸べられた手となり大きな救いと写ったであろうことは想像に難くありません。

思ったより長くなりそうなので、今回はこの辺で