大坂夏の陣 天王寺・岡山の戦い

日の出 歴史

今回は大坂夏の陣について主要な人物の動きにクローズアップして追い掛けてみたいと思います。
時代考証など気にせずに軽い読み物として楽しんで貰えればと思います。

初回は毛利勝永です。

豊臣方は茶臼山から岡山にかけて布陣。別働隊として明石全登が船場口に待機しました。

徳川方は松平忠直、本多忠朝を主軸に数段に及ぶ陣を構えました。

またこの時も徳川家康は慎重を期して豊臣恩顧の大名達が裏切ることを恐れ、特に福島正則を危険視して江戸に軟禁状態にしていたといいます。

毛利勝永によって切り開かれる突破口

慶長二十年五月七日

午前十時過ぎ。徳川方の松平忠直隊から天王寺口の毛利勝永隊に向けて突如、銃弾が打ち込まれます。毛利勝永隊はそれに反応して急ぎ態勢を立て直すと目前に迫る本多忠朝隊を迎え撃ちます。

ここで抜け駆けをした松平忠直は、結城秀康の長男であり徳川家光、徳川光圀の従兄にあたります。
彼が抜け駆けに至った経緯は先日の木村重成と長宗我部盛親たちとの戦いの際に、戦に参加せず傍観していたことを家康から叱責されたことが原因であったと言われています。また、木村重成と長宗我部盛親の戦いで大きく消耗した藤堂高虎は今日の決戦に於いて先陣を務める役を降りたと言います。
その為に徳川方の陣形に乱れを生じさせたのだと考えると二人の敗北は決して無駄なものではありませんでした。
これは余談ですが松平忠直はこの戦が終わった後の論功行賞で不満を抱き後々に幕府への不満をも積もらせ徳川秀忠の頭を大いに悩ませることになるのですが、これは別の話。

毛利勝永率いる部隊は松平忠直隊からの銃撃を受けます。
更に連携を取って攻め寄せるは本多忠勝の次男である本多忠朝。
本多忠朝は父譲りの勇将と言われ関が原では父と共に活躍した人物でしたが大坂冬の陣では酒の為に不覚を取って敗退したという汚名返上に燃えています。

始め毛利勝永は当初の作戦が遂行できなくなると、本多忠朝への銃撃を中止させようと隊に伝令を出しますが銃撃隊は既に止まることが出来なくなっています。
これに毛利勝永は作戦変更を決断。本多忠朝隊を近くに引き寄せるまで銃撃を止め近付いた所で一斉掃射。本多忠朝隊の先陣七十余りを討ち取り相手の出鼻を挫きます。
これによって本多忠朝の部隊が崩れたのを見るとすかさず突撃を掛けます。
突撃隊は本多忠朝の名だたる家臣達を討ち取りながら迫り遂には銃弾を本多忠朝に命中させます。それによって本多忠朝は落馬しながら尚も応戦しますが周りを囲まれて四方から突き出された槍を防ぐ術はなく討ち取られます。

本多忠朝を撃破した後も進軍を続ける毛利勝永の隊は真田信吉の陣に近付く事となります。
おそらく真田信吉隊ではこのまま衝突をすればそのまま真田幸村とぶつかる可能性を考えた筈です。

しかし真田信吉隊とぶつかった毛利勝永隊は圧倒的な勢いでこれを撃破。この際に真田信吉は討ち取られる寸前まで追い詰められており、それを辛うじて家臣である森佐野衛門が盾となって自らの死と引き換えに守っています。

更に徳川方から毛利勝永の動きを阻む為に小笠原秀政隊が迫りますがこれも撃退。その際に小笠原秀政は重傷を負わされ戦が終わってから間もなく死亡。
その長男であり徳川家康の曾孫にあたる小笠原忠脩も戦死。
小笠原忠脩は本来であれば松本城の守備を任されていたものを幕府に無断で父に合流した上で家康にその勇気を称えられて許された合流の果てでの討ち死にでした。
次男の小笠原忠真も重傷を負わされますが、こちらはどうにか一命は取り止めます。
しかしこれにより小笠原隊は指揮官を一度に失う事態となり撤退を余儀なくされます。

次に榊原康勝と諏訪忠恒、仙石忠政、酒井家次も勝永の猛攻に耐え切れず早々に敗走。

徳川方は先日の傍観を咎められた松平忠直と汚名返上に燃える本田忠朝の先走り感が強い為に徳川方全体の陣形が完全に整う前の猛攻から始まった影響が考えられるとはいえ、この日の勝永は正に悪鬼羅刹が如き強さです。

この戦いの中で日の本一の兵と称えられる真田幸村ですが、なんのなんの毛利勝永だって負けていません。
真田幸村が徳川の首を取る寸前まで追い込めたのは本陣前の名だたる武将をまとめて薙ぎ払って突破口への道を拓いたからだとも言えると思うのです。

次はいよいよ真田幸村が動きます。

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