大坂夏の役の前に行われた八尾の戦いに参戦した長宗我部盛親は藤堂高虎とが激突することになりました。
敵味方に分かれる藤堂家と長宗我部家には親交があり、その縁から藤堂家には桑名吉成を始めとした旧長宗我部家臣達が召抱えられています。
盛親にとっては旧家臣団と殺し合わなければならないという最悪の展開となった戦いでした。
この戦いによる疲弊と消耗により盛親は最後の決戦の日は戦いに出ることが出来なくなっています。
また盛親は大坂の役で敗れ子息共々処刑される事となり長宗我部宗家の血はここで絶えます。
そこから長宗我部家忍従の時代が始まります。
まず残された親族は長宗我部姓を使用することが出来なくなりました。
盛親の叔父である島親房は親典と名乗り大坂の役に盛親と共に参戦していましたが戦いを生き残ることが出来ました。
土佐に戻ると四年程入牢します。
その後は御歩行組(乗馬を許されない最低の地位)となりますが同時に御台所方といった要職にも就いています。
土佐は関ヶ原の戦いでの功績によって山内家が治める事になった経緯があります。
必然的に山内家の家臣には元長宗我部家の家臣だった者が多く入っている兼ね合いから統率の為に長宗我部家の血を引く親房の力が必要であったのではないかと思います。
そういった事情もあって山内家は長宗我部家への配慮から長宗我部元親の法要は山内家の資金で毎年行われていました。
しかし法要の際に長宗我部家が家紋の幕を張る事は許されても身分としては下士である為に木綿生地の使用しか許されず。
山内家は上質の絹地を使用するといったように格差を付けることによって山内家の格が上であることを周囲に示す場でもありました。
それ等の積み重ねがやがて山内家の者と長宗我部とを分け隔てるようになり、やがて格差の固定へと繋がっていったのでしょう。
元々、山内家が土佐藩を立藩する際に掛川から連れて来た家臣を上士、旧領主である長宗我部の家臣等を下士としています。
下士は木綿の生地を使用した着物しか着用を許されず当主にも原則としてお目通りすることが出来ないという掟がありました。実に下らない。
この流れは幕府が瓦解するまで続きました。
一般的にこういった上士と下士(軽格、郷士)と呼ばれるような固定された身分格差というものは上の身分の者へ驕りを齎し、下の身分の者には不満を蓄積させる事となり、やがて両者は対立することになります。
土佐藩では「井口刃傷事件」が対立への契機になったと言われます。
この事件は文久元年(1861年)の三月四日の夜に井口村の永福寺で起きました。
そこで上士の山田広衛と下士の中平忠治郎の二人の間で肩がぶつかったというつまらない理由で争いが起きました。
これに上士の山田は酒が入っていたこともあり下士である忠治郎を無礼討ちにします。
これを見ていた当時十九歳の青年である宇賀喜久間は中平忠治郎の兄である池田寅之進にこの事を知らせます。
寅之進が現場に駆けつけると現場に残り刀を洗う山田と一緒にいた茶道方の益永繁斎の二人を斬殺。
翌日には山田の家には友人の上士達が集まり、一方の池田の家にも同様に下士達が集まり一触即発の事態へと至ります。
この事態を治める為に土佐藩は下士である池田寅之進と宇賀喜久間の両名に切腹を命じ池田家は格禄没収。
宇賀家は断絶処分という処置を下し、上士の山田広衛の父である山田新六には謹慎処分を命じます。
当時十九歳の宇賀喜久間は泣いて嫌がったといいますが強引に説得して兄である宇賀利正が首を刎ねました。
この下士側を一方的に罰するような処分は大きな不満を抱かせることになりました。
嘗ての藩主であった長宗我部元親は学舎を設け海南朱子学(南学)を教えさせました。
南学とは天皇を敬う「天皇親政」や理論ではなく実際に行動する事が重要であるという「実践」を重視した教えです。
これは山内家の統治に移っても残り続け武市半平太や坂本竜馬といった勤王の志士達も学び大政奉還への大きな原動力となりました。
やがて、武市半平太、井上応輔らが土佐勤王党を結成するなどして大きな動きを見せ始めます。
土佐からは他にも吉村寅太郎、中岡慎太郎、池内蔵太といった勤王の志士達が輩出されています。
土佐藩において下士とされた長宗我部家旧臣達の新しい流れに向かう勢いは凄まじいものがありました。
しかし脱藩した田中光顕による「土佐歴史散歩史」によると土佐藩脱藩者四十四人中、維新後にも生き残ったのは僅か四名。決して平坦な道ではなかったことが伺えます。
大政奉還後
親房(島 弥九朗)から数えて十二代目の興助重親の代になってようやく長宗我部家の末裔は親の字を名前に使用することが出来るようになります。
雪渓寺境内に長宗我部祖先の秦一族、元親親子、戸次川で討ち死にした家臣等を奉る「秦神社」が創建され今まで墓の無かった盛親の慰霊碑も建立されました。
これがどういう事かと言うと、ようやく長宗我部家が復活したという事です。
大坂の役での敗北によって長宗我部盛親の夢は破れましたが、やがて想いを同じくする坂本竜馬等によって徳川家康の再来と謳われた徳川慶喜の代での倒幕へと繋がっていったのだと考えると何だか愉快なようにも思えるのです。
それでは本日はこの辺で