篤姫の生まれ
後に徳川将軍家定の御台所となる篤姫は天保6年12月19日(1836年2月5日)に生まれました。父は島津本家から分かれた御一門四家の一つである今和泉島津家の10代目当主である島津忠剛。元は26代島津家当主島津斉宣の五男として生まれたのですが今和泉島津に男子が無かった為に養子として入り当主となったのでした。
篤姫の名前について
篤姫が生まれた時、今和泉島津家には三人の兄があり上から忠冬、久敬、峰之助とがいましたが、両親は初の女子が生まれたことが嬉しかったのか一の姫という意味で於一(おかつ)と名付けられ、後に島津斉彬の養女となり篤子となり、その後、当時の将軍家に御台所は公家、宮家、天皇家から迎えられていた為に篤姫は近衛家に養女として入り藤原 敬子(ふじわら の すみこ)と名を変え、その際に篤は君号となり篤君となり篤姫と呼ばれるようになり夫の家定死後には出家して天璋院(天璋院殿従三位敬順貞静大姉)と出世魚よろしく名の変わる篤姫です。ここでは呼び名を都度毎に変えるのは面倒なので篤姫に統一します。
篤姫の特徴
篤姫は女性としては大柄で骨格もしっかりした体を持った女性でした。幼少期の逸話としても、いじめられている兄を篤姫が助けたという話があるので気の強い面を持っていた人でもあったようです。現在に残る篤姫の残る写真を見ても、姫というか弱そうなイメージからは離れた姿を持っていたようです。と、言うか見た印象としては強そうなので守ってくれそうです。当時の支配階級にある婦女子というのは体の弱い人間が多かった中ですので、その姿は余計に際立っていたのではないかと思います。
篤姫の母について
篤姫は明治維新後に収入面から厳しい状況に置かれても薩摩藩からの金銭援助を断り、元大奥関係者達の為に就職や縁組の斡旋などに力を尽くし、篤姫が死後に確認された所持金は3円(現在の6万円ほど)しかなかったそうです。どんなに厳しい状況に置かれても自分は将軍家に入った徳川の人間であるという覚悟の強さが伺えます。
では、この篤姫の気性は何処から来ているのかを辿ってみると母親に行き着くように思います。篤姫の母親はお幸の方といいます。彼女も篤姫と同じく長女として生を受け、妹弟の世話を焼くなど面倒見の良い人で嫁げばその先の下々の者達から慕われる人であったようです。
彼女の性格を知るエピソードとして嫁ぎ先の今和泉家の領内で一揆が置きたと島津本家に伝わりました。これに篤姫の父でもある忠剛は城に呼び出されると藩主より家政の改革を命じられます。当時、領内で一揆が起きるということは藩経営に問題があるとされ改易や転封の対象とされる可能性が生じます。家政の改革というのは要は忠剛の領地経営能力が至っていないと判断されお家お取り潰しの可能性を提示されたという事です。これに島津本家育ちの五男坊であった忠剛はお家の命運は決まったと怯えるのに対して、お幸の方は家の者達を叱咤激励して平常心を保つよう努力したといいます。結局、この騒動は無事に収まり忠剛の戒めも解かれて終わるのですが、この時の母の姿を見ていた篤姫は家の中に於ける女の力は決して小さなものではないということを学んだのではないでしょうか。
篤姫と菊本
次に彼女に影響を与えた人物として老女である菊本を挙げたいと思います。
良家の子女は母親ではなく乳母が幼児の頃は付き、ある程度の年齢になると教育係として老女が付くようになります。菊本は家中の下士の中から奉公に上がり老女となり篤姫の教育係となりました。
因みに当時の姫君には乳母や老女の他にも雑用をこなす女中も付いており厠の中にまで付いて来て尻を拭いてくれたりします。まぁ、そんなことをやっているから江戸時代の末期の藩財政はどこも困窮していたんじゃないですかねぇ等と思ったりもします。
話は戻り菊本ですが、その性格は忠義に厚い人であったようです。
島津藩主は江戸住まいになることが多いために言葉や習慣も江戸を倣っていましたので女性は女性らしくという考え方も在ったのではないかと思うのですが、篤姫は女に生まれたのが勿体無いと言われる程に豪胆な人でした。この篤姫の性質を女らしいものに矯正しようと教育方針が取られておかしくないと思うのですが、菊本は篤姫の個性であると考えてそれを許したのではないかと思います。お陰で篤姫は大奥に入った後も老中から「女性のようにござらん」と言われていたようなので、その性格は変わらなかったようです。篤姫は先に述べた通り、明治維新後に元大奥の人々の面倒を見たように下の者にも優しさを持って接することの出来る人であったのは菊本という信頼できる女性が側に付いていた為に下の者にも信頼に値する人間が居るということを経験として知っていたという点も強く影響したのではないかと思います。
そして、彼女との別れが訪れます。篤姫は新しき島津の藩主となった斉彬から気に入られ、次期将軍の御台所となる縁談が持ち上がります。しかし、これに篤姫が島津の分家の出である者で良いのかと出自を問題にする声も挙がっていました。更に篤姫を教育した菊本は身分の低い出です。この点も問題として挙げられるのではないかと心配したのか彼女は職場の屋敷で自害します。神聖な職場を血で汚し且つ慶事の前での自害は明確な意図がある筈です。抗議という意味なら篤姫は江戸に行く事が決まり自分の手から離れることは決まっているので彼女が自害する意味はありません。他に考えられる大きな理由としてはやはり職場を血で汚した自分を罰するという名目で自分の存在を藩から抹消することで篤姫の負い目を無くすことを求めたと考える方が自然であるように思えます。彼女の望み通り菊本の存在は藩の臣籍から抹消されます。これによって薩摩藩から菊本の存在は消えました。
篤姫が将軍家に入る本当の覚悟は、この時に決まったのではないでしょうか。
篤姫が将軍家に嫁いで以降、彼女が故郷に戻ることは生涯ありませんでした。