日本二十六聖人について

時津港前にある日本二十六聖人上陸の地の記念碑 歴史

豊臣秀吉はキリスト教の禁教令を発布しています。

実は以前にもバテレン追放令を出しているのですが、それでもキリスト教の布教を止めませんでした。
これはキリスト教の布教は同時に交易も行われることからのお目溢しであったようです。

その為バテレン追放令は個人による宗教選択の自由を禁止するものではなく黙認という形ではあるものの宣教師も活動できていました。
しかしイエズス会から遅れてやってきたフランシスコ会はイエズス会が先にやって来たアドバンテージを取り戻そうと宣教活動を精力的に行ってきた事が日本に対して挑発的と捉えられたことが災いします。
豊臣秀吉は当時の京都奉行であった石田三成に京都に住むキリスト教徒を捕縛するよう命じます。
そしてこれはサンフェリペ号の兼ね合いからなのか捕縛された者はフランシスコ会の会員でもスペインのアルカンタラ派に属する者が殆どでした。

1597年1月3日
捕縛された24名は京都・堀川通り一条戻り橋で左の耳たぶを切り落とされます。秀吉は耳と鼻を削げという命令であったものを背いたのは三成のせめてもの情けだったのでしょうか。
捕らえられた24名は見せしめの為に粗末な牛車に乗せられ、京、大阪、堺を引き回されました。

また見物人を驚かせたのはルビドコ茨木12歳、聖アントニオ13歳、聖トマス14歳の三人の姿でした。
人々は同時に三人が傷の痛みに堪えながら静かに「天にまします。めでたし」と祈りを唱え続ける姿に涙したと言われます。

1597年1月9日
長崎で処刑されることが決まった24名は徒歩で長崎へ向かう事となります。直線距離で凡そ700kmの旅路です。
その道中で世話をする為に付き添っていたフランシスコ吉蔵とペトロ助四郎の2名が新たに捕まり捕縛者は26名となります。二人が抵抗する事は無かったと言われています。
1月の寒い時期に長い旅路へと出ることになりました。
捕縛者26名の内訳は日本人20名、スペイン人4名、メキシコ人とポルトガル人が各々1名。全て男性でした。

途中の唐津(現在の佐賀県唐津市)で管理責任者であった寺沢半四郎は12歳の少年ルビドコ茨木を哀れに思い棄教すれば許してやると持ち掛けますが「束の間の命と永遠の命を取り替える事は出来ない」と申し出を断ったといいます。
ルイス・フロイスは彼が捕まった時の事を「この少年が年少だったので哀れんで命を救う為に名簿に記入したくなかったが、少年は執拗に懇願しつづけたので、その聖なる懇願により彼を名簿に記入した」と記しています。
他の殉教者たちは尾張出身で最年少の彼がいつもにこやかでいる姿に心を慰められたと言います。

1597年2月5日
長崎に到着した26人は通常の処刑場ではなくゴルゴタの丘に似ているという理由から長崎の西坂の上の丘場での処刑を望み、その願いは聞き入れられます。
刑場に着いた一行は十字架を見て喜んだと言います。

西坂の丘の周りには4000人を超える人が集まりました。
外出禁止令が出された中での出来事です。

磔にされたパウロ三木は人々に向かい自らの信仰の正しさを語りました。
一行の全員が絶命したのは午前10時頃だと言われています。
彼等の遺骸は分けられると日本で最初の殉教者として世界中に送られ崇敬を受けました。

1862年6月8日

彼等はローマ教皇ピウス9世によって聖人の列に加えられました。
カトリック教会に於ける「日本26聖人殉教者」の祝日は2月5日とされています。

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