お客様は神様ではない

お客様ありがとうございます(ハート) 徒然日記

コンビニのレジで支払いをした際に店員さんに礼を述べて支払いをしたところ後ろに並んでいた子供が一緒に連れ添っていた父親に「なんであの人はお客さんなのにお礼を言ったの?」と聞きその父親は「うーん、何でだろうね?」と答える場面があったと聞きました。

実際に現場で交わされたそのやり取りがどのようなニュアンスであったのか分からないのですが、実際に自分が子供から同じ質問をされたときに答えが直ぐに出るのだろうか?と考えると自分は出て来ないので考えてみることにしました。

お店で料金の支払いをする際に「ありがとう」と言っている人を見ると気持ちが良いです。それに倣って私も買い物で支払いをした際には「どうも」位の礼は述べるようにしているので支払いをした際にお礼を述べることが間違えているとは思ってないです。
同時に「お客様は神様です」と三波春夫が言った言葉が思い浮かびました。

「お客様は神様ですの真意」

この言葉はお客様は絶対で神様のように敬うべきだと言う意味で広がりましたが、後に三波春夫は正しく理解されていないとして発言の意図を説明しています。

『歌う時に私は、あたかも神前で祈るときのように、雑念を払ってまっさらな、澄み切った心にならなければ完璧な藝をお見せすることはできないと思っております。ですから、お客様を神様とみて、歌を唄うのです。また、演者にとってお客様を歓ばせるということは絶対条件です。ですからお客様は絶対者、神様なのです』

引用:「三波春夫オフィシャルサイト」より

発言の意図を私が解釈してみると、自分を正しく律する為の心の持ちようであり、その力の向き方が正しいかどうかはお客さんが喜んでいるかの態度で判断すれば良いという寧ろリアリストとしての表れであり、その実は世間からの理解と真逆であるようにすら思えます。

三波春夫自身もお客さんから「お客様は神様だろコノヤロー!」等と言われて理不尽なことを言われて嫌な目にでも遭って?意図を説明しようと考えたのだろうか等と想像します。

支払う側が偉いという幻想

しかし誤解されているとは言え件のセリフが広まったのは皆の中にそうされて然るべきであるという考えが共通して存在している証左であるようにも思えます。

斯く言う私も例外ではなく更に言っておくと私の人間的な器の大きさはペットボトルのキャップ位です。
従ってお店で買い物をしてレジで会計をした際に「あざーすっ」でも良いので言われないとイラっとするので所謂お客様意識があることを否定できません。

「店員さんからの敬意って絶対に必要なの?」

ただセルフレジを使うとそんな言葉を掛けられることは当然ありません。
だからセルフレジはダメなんだとは思いませんし並ばなくて済むなら積極的に使っているので絶対に必要な要因でもないように思えます。

「買い物という金銭を介したやり取りについて」

そこで買い物と言う行為は何なのだろう?と少し考えてみることにします。
買い物は多くの場合、金銭を介して行います。
金銭がなぜ必要かと言えばサービスの交換を効率的にする為です。

「もしもこの世にお金が無かったら」

例えば下の二人が以下の状況に置かれていたとします。
Aさん:釣りが得意
Bさん:掃除が得意

Aさんは釣りが得意で魚をたくさん捕ることが出来ますが掃除が苦手で自宅は近所でも有名なゴミ屋敷です。
お陰で市役所からこのままだと強制執行になりますよと脅され近所の人からも冷たい目で見られて過ごしています。
更に業を煮やした隣家のおばさんから嫌がらせに警察を呼ばれる始末です。
流石に居た堪れなくなったAさんは自宅の掃除をしてくれるようBさんに頼みたいと思い立ちます。
しかし対価なしに働いてくれる人は中々いません。
そこでAさんは釣った魚を対価にしてBさんに掃除を頼むことにします。
魚という物品と掃除というサービスの物々交換です。

Aさん「鮭、百匹位あげるから掃除してよ」
Bさん「いや、あなたの家は魚臭いしゴミがトラック3台分くらい出て来る見込みなので本まぐろ三匹位くれないとやらないよ」
Aさん「マグロは捕れないから、じゃあシャケの他にイカとタコも其々百匹くらい付けるからさ、頼むよ」
以上のように物々交換だと交渉が必要で面倒です。
しかもBさんから「今日は魚の口じゃなくて肉なんだよね」等と言われてしまったら魚の口になるまで待たなくてはならず、そもそもBさんが魚嫌いだったら取引自体が成立しません。

「金銭がある場合」

Aさんは釣った魚を売却して得たお金でBさんに掃除の対価を支払うことが出来ます。
スムーズなやり取りです。

更にAさんは今まで食べ切れなかった魚は適当に庭に捨てるか、いつも睨んでくる腹いせに夜中こっそり隣家の庭に放り込んだりしていましたが、魚を市場で売却して金銭に交換できると分かったので隣家への嫌がらせを止めました。
お陰で土方をやってるお隣の旦那さんに「おまえはいつになったら懲りるんだ」と言われながらしばかれることもなくなりました。

しかも魚は時間が経つと腐りますが金銭は腐らないので貯めて置いて病気になって仕事が出来ない日は貯金から生活に必要な金銭を支払えば良いのでシャケが嫌いな医者に「イクラ丼ならいけるから、いくら丼ならいけるから!」等と言って無理矢理おしつけて診て貰ったところ
医者「あ~、これは癌で手遅れだな」
Aさん「ガーン!本当ですか先生!」
医者「うん。もう助からないね。一応風邪薬出しとくから治らなかったらまた来て」
等と不安にさせられることもありません。

Bさんも交渉で勝った気になって翌日あたりに「こんな魚ばっかり食えねえよ」と我に返って処理に悩むことなく受け取った金銭を持ってスーパーで「おれ魚きらいなんだよ」等とぶつぶつ言いながら牛肉でも買えば良いのです。

買い物とは取引であり、取引とは人に頼むこと

このように買い物とは取引であり、取引とは自分にとって必要なことを他の人に頼んでやって貰うことです。
そのように考えると本来、取引とはどちらかが一方的に利益を得るもので無いので、お客様が神様のように利益を与えてくれることはありません。
もし取引によって、どちらかが一方的に多くの利益を得ているのであれば、それは健全な取引ではない可能性があります。

お客さんなのに店にお礼を言うのはなぜか?

このように考えてみると買い物という行為は次のように例えることが出来るかもしれません。

ご近所で回覧板を回すとします。
回覧板にはゴミ置き場の清掃について書かれており、皆に回らないと人手が足らなくなって全員が困ってしまいます。
従って回覧板が回ることは回覧板の回る全員にとってメリットです。

回覧板が届けられれば「ありがとう」と届けてくれた人にお礼を述べるでしょうし届けた側も「いいえ、こちらこそどうも」等と言って互いに労を労い合うことになります。

これが回覧板を持って行ったのに相手が礼も言わず黙ったまま受け取ったり、届けた側が「有難く思えよ」等と言って偉そうに帰って行けば礼儀知らずとバカにされます。

もしもお隣が留守ならポストの中にでも入れて置くことになりますが別にポストからお礼を言われる必要はありません。
無事に回覧板が回っていくことは自分にとってもメリットだからです。

このように考えると冒頭の支払い側が店員さんにお礼を述べたやり取りは
店員さん「(提供するサービスを必要としてくれて)ありがとう」
お客「(必要なサービスを提供してくれて)ありがとう」
という互いの仕事に対する敬意を表明して交換しているのだと捉えれば冒頭の子供が抱いた疑問も解けるだろうか等と思ったので書いてみました。

それでは今日はこの辺で

徒然日記
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