島津斉彬の次期藩主を巡る戦い

西郷隆盛像 幕末

斉彬の不運

斉彬は不正の告発を以ってして幕府の力を背景として父を訴追することを決めました。昔から島津家に馬鹿殿なしと言われていました。斉興にしても豪勇とも言える重豪と比較すると小粒の感が否めないのですが、とは言え財政破綻した薩摩藩の財政を立て直しており優れた為政者であることは疑いようがありません。そしてとかく金の掛かる蘭学ではなく国学・儒学・和歌・漢詩に通じている教養人でもある島津久光もまた藩主として務まる人物であったことから斉興は久光に家督を継がせたいと考えさせることになり斉彬の家督相続を遅らせることになったのではないかと思います。勿論、優れた人材を輩出する島津の人間の中でも斉彬が突出した才能であることは疑いようがないのですが、如何せん彼の才覚を正確に評価できる人間は当時の日本では数える程度しか存在しなかったという事実が斉彬にとっての不運でした。

阿倍正弘の悩み

因みに阿倍正弘は斉彬のことを評価する事の出来る数少ない一人です。彼は若干25歳にして老中となり僅か39歳でこの世を去ってしまう人物ですが、恐らくは彼の寿命を大きく縮めたであろう問題は、当時、日本にも外国船が度々来航しており、その対応に悩まされ、更に今まで強国として手本ともしてきた中国がイギリスとの阿片戦争によってあっさりと敗れてしまったという事実。そして日本も何れ列強国に関係を迫られる事になる。それと如何に関係作りを行っていけば良いのかというのは大きな問題でした。しかも西欧列強各国が行う植民地政策の実態は次の標的とされる恐れのある日本にとって大きな脅威と感じさせるには十分でした。正弘はその為に海岸防禦御用掛(通称は海防掛)を常設として海外からの攻撃に備えたり、後にはジョン万次郎を人材登用したりといった具合に海外に通じる人間を求めていたという事情の中で蘭学に通じる島津斉彬という人材は正弘にとって喉から手が出るほど求めていた人物であったのではないでしょうか。

嘉永元年5月7日、江戸・薩摩藩邸

ここでは斉彬の子供である寛之助が病の床に就き必死の看病を受けますが、その晩に息を引き取りました。その屋敷の床下から呪詛調伏に用いるとされる人形が発見されます。また、これを行ったのはお由羅であると噂されます。

斉彬の呪術戦

島津には特異な軍役が一つあります。それは軍役方兵道役という真言密教の秘法を使用して敵将に呪詛を掛けるという役割です。これは斉興が関が原の合戦での薩摩伝統の軍法の中に洋式戦術を組み込んで銃隊を編成を行った際に有馬衛守をこの軍役方兵道役に任命しています。薩摩藩は西洋の新しい考え方を組み込んだかと思えば呪術に頼ったりと不思議な所だと感じます。話は戻り、斉彬の屋敷下で見つかった呪詛人形を包んでいた袋に書かれた文字の筆跡はお由羅の広敷番頭で兵道家の牧仲太郎のものと噂され、これを信じる者は多く居ました。蘭学に通じた斉彬もこういった考え方の影響を少なからず受けていたようで弘化4年8月29日、山口定救に宛てた手紙の中でお由羅の動向を探るように指示を出した手紙の中にお由羅が精光寺地蔵に参詣したのはどういった意味合いによるものか、また他に祈祷などを頼んだ寺社がないのか調べよという指示を出し、他にも部下から報告を受けた手紙の中で人形の件は京都で作られたものであることも、どういった手順で本人の手に渡ったかも分かったが当人の手許に渡った後がよく分からない。これを探ってほしいといった内容の手紙(弘化4年10月晦日、山口定救宛)を書いています。そんな騒ぎの中で嘉永元年11月23日に側室すまが四男篤之助を生んでおり、嘉永2年正月29日付の手紙の中で斉彬が自分と三男盛之進と四男篤之助の身に付けていた生地を井上正徳という諏訪明神の神官にお由羅側からの呪術から身を守る為に祈祷を行う際に使用する形代として送っており、井上からは更に三人の身に付けた襦袢を送るようにと要請が返って来ています。この辺りは自分で書いていて厨二心を大いに刺激されるのですが、お由羅騒動について調べると大きな事件であったにも関わらず触れ方があっさりしている書籍多く疑問だったのですが、こういった経緯を大真面目に書けるかというと中々難しいものがあるので必然的にあっさりせざるを得なかったのかなぁ等と納得していたりします。

調所の死

嘉永元年秋、調所広郷が薩摩から出府して来ます。そこで同年12月に阿部正弘から呼び出された先で、薩摩藩密貿易の件、特には琉球の使者である池城安邑(いけぐすくあんゆう)が弘化3年に清へ渡り交渉して10万両相当のものと引き換えに外国人を連れ帰らせる交渉を行いまとめた事。琉球で外国と密貿易を行っていることを追及され、これを逃れる術はないと観念した広郷は江戸に出た際の宿として宿泊している藩邸御長屋で全ての罪は自分にあると遺書に書き残し服毒自殺をしました。これに連動して大目付兼側用人側役として広郷に次ぐ斉興の信任を得ていた二階堂士津間も3千両の横領が発覚したために失脚する事となりました。調所広郷、重豪の命を受けて20年間の労に就いて得たものは悪家老という汚名でした。残された家族も徹底的な迫害を受ける事となり一家は離散しました。しかし、苗代川地区では薩摩焼の増産と陶工の待遇改善に尽くしたことから調所の招魂墓が祀られ続けています。また、現在へと至り広郷の行った財政改革が後の斉彬や西郷等の幕末維新を成功させる基礎となったと評価されています。

お由羅騒動

今までの一連の経緯から斉彬を藩主にしようと水面下での動きが活発化します。その流れの中で調所の一派とされる島津兵庫やお由羅サイドに立つ島津豊後を打倒を目指します。しかし、事を急いでは事を仕損じるの言葉通り、暗殺計画が明るみに出る事となり斉彬一派の多くの人間が処罰される事となりました。その中には赤山靭負も含まれていました。

斉彬と斉興による次期藩主を巡る戦いも佳境を迎えようとしています。

それでは