島津斉彬が藩主となる

西郷隆盛像 幕末

嘉永3年3月4日
赤山靱負が切腹して果てました。

赤山靱負の死

赤山靱負は一世遠島を申し渡されると自害することを選び切腹します。
その後に斉彬が藩主となったことを考えると十分に返り咲く可能性はあり、たとえ往生際が悪いと罵られようと諦めないという事は重要であるようにも思います。
赤山靱負は自分の裃を西郷吉之助(後の西郷隆盛)に遺しました。
これを渡された西郷吉之助と西郷吉兵衛の親子はそれを抱いて泣き明かしたと言います。
赤山靱負が裃を吉之助に託した理由は自分の遺志を託す気持ちから来ているのでしょう。
正確に彼が抱いていた理想やそれに伴う展望や思想といったものは伝わっていませんが、それは赤山靱負から西郷隆盛との交流の中で伝えられていたのではないかと推測します。
何れにせよ何かを託す相手として西郷隆盛という男を見込んだ彼の目に間違いはなかったようです。

西郷隆盛に人が集まり始める

赤山靱負の裃を渡された西郷吉之助は未だ無力でしたが朱子学の書物である近思録の共同研究を核として彼の下には段々と人が集まって来ていました。
代表的な人物を挙げると、

加治屋町郷中:大久保正助(後の大久保利通)と吉井仁左衛門(後に日本鉄道社長となった吉井友実(ともざね))、
上ノ薗郷中:伊地知竜右衛門(後に一等侍講、修史館総裁、宮中顧問等を歴任する伊地知正治)
高麗町郷中:有村俊斎(後に奈良県知事、元老院議官、枢密顧問官を歴任。水戸の藤田東湖と西郷隆盛を引き合わせる等もした海江田信義)

これらの二才の青年藩士達はやがて藩政改革グループとなり、そして今回の騒動で排除された島津斉彬派の占めていたポジションに段々と彼等次代の二才の青年達が入り込んで行く事となります。
お由羅騒動によって青年藩士(二才)達の心は島津斉興から離れ、その反動で島津斉彬の藩主就任を望むようになり、やがて改革派である西郷隆盛への人望へと繋がったのではないでしょうか。
後に島津久光と西郷隆盛の二人は対立する関係となります。
しかし薩摩藩の最高権力者となった島津久光でも西郷隆盛を最後まで完全に排除する事は出来ませんでした。
島津斉彬の早過ぎる死は島津斉興の希望通り島津久光に権力を継承させることに成功しましたが、それも西郷隆盛等によって成し遂げられた幕末維新後に行われた廃藩置県によって藩主による支配構造自体を否定される事となり、この二人は反目することを宿命付けられていたようにも見えます。

島津斉彬の反撃

このお由羅騒動によって島津斉興は島津斉彬一派を粛清することに成功しました。
結果としてこれは彼自身の引退を早める結果となりました。
先ず、今回の騒動で島津斉彬派の人々は殆ど一掃される事となりましたが井上正徳と他3名の藩士は福岡藩の黒田斉溥(長溥)へ庇護を求めて脱藩することに成功します。
黒田斉溥は島津斉彬から見ると叔父にあたります。
黒田斉溥は脱藩してきた薩摩藩から脱藩してきた彼等から聞いた藩内事情を島津斉彬に報せ、その友人でもある伊予宇和島藩主 伊達宗城(むねなり)と幕府老中首座である阿部正弘へ島津斉彬への助けを求めました。
その上で島津斉彬の周囲には黒田斉溥や伊達宗城の他に親戚筋では陸奥八戸藩主 南部信順、豊前中津藩前藩主 奥平昌高、他に常陸水戸藩主 徳川斉昭、越前福井藩主 松平慶永(後の春嶽)という人脈が控えており、書いていて気付きましたが幕末四賢公が山内容堂を除いて揃い踏みという当時のオールスターが揃っています。
更にお由羅騒動の顛末は幕府にも伝わる事となり阿部正弘を始めとした幕府の人間と大名達がこれに驚き幕閣側に島津斉興を引退させようという動きが活発化。

嘉永3年(1850)6月28日付けで島津斉興から幕府に琉球の統治に問題がないと以下のように問題ないとしていました。
琉球ではフランスの宣教師であるル・テュルデュが島を去り、イギリスの武力を背景として布教活動を求めるイギリス人(ベッテルハイム)一家が未だ滞留しているのみで心配ないという報告。
これに以下のような問題が起こっています。
実際には嘉永2年(1849)11月7日にイギリス軍艦パイロット号(艦長ライオンズ)が、初めてイギリス政府外務大臣パーマストンの貿易を要求する書簡を持参する等の事態が起きている。

これを島津斉彬は伊達宗城から阿部正弘に報告して貰い島津斉興派が虚偽の報告をしているとして窮地に追い込むことにしたようです。

ゴネる斉興

嘉永3年11月13日
幕臣 筒井政憲は薩摩藩家老の島津将曹(しまづ しょうそう)と同藩番頭の吉利 仲(よしとし なか)を呼び出し実質的に斉興の引退を勧告する厳しい内容を伝えます。
その理由を筒井政憲自ら書いたものを両人に渡しました。
これに両人は一言の弁明も出来なかったと言います。
戻った二人は必死に島津斉興に引退するよう説得しますが島津斉興は容易に頷きませんでした。
島津斉興は引退を避ける為に次の行動を起こしています。

1、来年の秋まで待って欲しいと筒井政憲に申し入れ
2、島津斉彬からも延期願いを出させる

幕府の対応
1、延期願いを拒否
2、島津斉興の親戚でもある南部信順に退隠願いを早く出すよう説得を指示
→島津斉興は面会しない事で対抗するも南部信順(なんぶ のぶゆき)は仕方なく吉利仲に会うことで対抗。
島津斉興がようやく承諾。

嘉永3年(1850)12月1日
ようやく島津斉興より退隠内願書が提出されます。

同年12月3日に将軍徳川家慶に拝謁した島津斉興は「朱衣肩衝」という茶器を下賜されます。
通常、将軍から武家へ下賜する品は太刀か乗馬が常でしたので引退して茶でも楽しむが良いという皮肉です。

再びごねる斉興

嘉永3年(1850)12月7日
幕府は島津斉興の内願書に対して承諾する御沙汰書を出しますが斉興が再び引退は嫌だとごね出し島津将曹と吉利仲を大いに困らせます。
何せ島津斉興が受け入れなければ自分たちが罰を受けるだけではなく藩が転封処分とされる可能性も出て来ます。
その心情は察して余りあるものがあります。
これに島津斉彬も12月8日に伊達宗城に宛てた手紙の中で汗顔の至りと恐縮して報告する羽目に陥っています。
島津斉興の驚異的な粘りは更に続き一同の説得によって12月28日にようやく御沙汰書に対して一度国許に帰り来春になって正式な退隠届けを提出する旨の請け書を幕府に出しました。

いい加減にしろ斉興

嘉永4年(1851)新春
島津斉興は未だ薩摩に帰りません。
驚異的な粘りです。
これに阿部正弘は正に矢の催促を繰り返すこととなります。
それにもめげない島津斉興は琉球から使者を呼び出して一緒に同行して将軍に拝謁させて、この使者の口から琉球の問題が上手く処理されていると伝えさせる事で現在の正四位上宰相から従三位に官位を昇進させることで影響力を強くしようと考えたようなのですが幕府はこれを「先格なし」と退けています。
この島津斉興の驚異的な粘りには江戸時代を研究していた三田村 鳶魚(みたむら えんぎょ)も驚いたと書き残しています。
正月24日、阿部正弘は伊達宗城を呼び出して早く退隠願いを出させろと強く催促しています。
もういい加減しろという心の声が伝わって来るようです。
伊達宗城も友である島津斉彬の為に引き受けた仲介役とは言え、えらい苦労を背負い込んだものです。
同月30日
ようやく島津斉興は正式な退隠願いを提出しました。

因みに伊達宗城は阿部正弘に対して、斉彬が藩主となった後に島津斉興が薩摩に帰ると国政や琉球問題に対して必ず口出しをするので江戸に留まらせて4年間は薩摩に帰らないように命じてほしいと願い出ています。
斉彬は本当に良い友人を持ったんだなぁと心から思います。

やっと島津斉彬が藩主となる

嘉永4年(1851)2月3日
正式に島津斉彬が第28代藩主となりました。
同年5月8日の先日
斉彬が薩摩向かう途中で福岡藩へ立ち寄ると斉彬は黒田長溥へ協力を得たことについて礼を述べます。
この時期、島津斉彬は御付の家来に薩摩を脱藩して福岡へ来ていた井上正徳等4名に対して褒美を届けさせるという密命を与えます。
密命としたのは脱藩した彼等は薩摩から追っ手を掛けられる身ですので褒美を与えることはおろか藩主と直接会うことすら許されないからです。
家来は斉彬がこれから住吉神社を参詣することを伝えると4人に近くの茶屋で待つように伝えたと言います。
斉彬は茶屋の前を駕籠に乗って通り過ぎる際に簾を開けて4人達を見遣り何度も頷きます。
彼等は軒下に膝まづくと涙を流してこれを見送ったと言います。

島津斉彬43歳の時でした。