宗教は民衆のアヘンであると聞いて思ったこと

ヘーゲル法哲学序説を読む機会が有ったので、軽く書いてみたいと思います。

この短い論文の題名を聞いてもピンと来ない人は著者も含めて多いと思うのですが、論文の中で有名な一説である「宗教は民衆のアヘンである」と指摘した部分については耳にしたことのある人も多いのではないでしょうか。

今回はその「宗教は民衆のアヘンである」という部分について思ったことを書いてみたいと思います。

前提条件として人は救いを求めます。
宗教で言うならキリスト教というのは元々ユダヤ教の一部であった訳ですが、キリスト教が後に世界三大宗教の一つとなった理由の一つは姦淫の罪を生業とする春をひさぐ者やユダヤ教が定める安息日にも働かなくてはならない労働者といった人達にも救いの手を差し伸べたという点が恐らくユダヤ教からの拒絶を招き、同時にキリスト教にとっては大きな転機となり現在があるのではないかと想像します。

救われない人々の現実の不幸への抗議が宗教であるとすれば、昔の貴族や富裕層というのは何故、神を信じたのでしょう?言うなれば、過去の成功者と言われる人達は下層階級の人間から見れば恵まれて満たされた存在である筈です。

ここでは生産性というのを一つの軸にして考えてみたいと思います。
現代と古代の人々の生産性は正に天と地と言って差し支えない程の大きな違いがあります。言ってみれば現代日本の多くの人間は江戸時代の多くの大名よりも良い暮らしをしていると言っても差支えない程です。
(昔の大名が人を使役して動かす等といった人に対しての影響力は現代人が及ことはありませんが、これも個人の生産性の伸びに伴って現代の一個人の労働、ひいては個人の価値が上がった結果であると言えるのかもしれません)
そうなると、古代の貴族といった上流に位置する人々もまた現代の感覚から見れば貧しい生活に見えるのではないかと思えます。

しかも古代は秩序立ち平和な世界では決してありません。
事実ユダヤ人は国を追われたり虐殺にあったりと言ったように、それは苦難の歴史でもありました。
従って古代の上流階級の人々というのは常に自分が現在の地位から転落する可能性を危惧していたのではないかと思われます。その不安定な中で宗教というのは心の安定剤ともなったのでしょう。
即ち、この人たちも救われることを祈る動機があった訳です。

論文の話に戻って来るのですが、マルクスは宗教というものが現実の辛く苦しい気持ちを紛らわせる麻薬であり実際の不幸に対しての抗議であるといったように述べています。
この救いのない指摘を見ると、マルクスが人々から嫌われまくり、資本論を書いて献本したらお前の書いたものなんか読みたくないと言って数多く返本されたのもさもありなんという気持ちがします。
当時の欧州での宗教と言うのは人の誰の心の底にも共通して流れる大事な共通項のような存在です。それをマルクスは真っ向から否定したわけです。
これは私の卑近な例を挙げるとアイドルに入れ込んでいる友人に「そういえば、あのアイドル。文春砲を喰らってたけど、裏でジャニーズのアイツとやりまくりだ。ゲラゲラゲラッ」とやっていたのと等しいことをやっていたのですから、そりゃあ嫌われて然るべきというものです。

しかし人の願いが多く集まれば影響力を持ち、やがて多くの人が認める権威へと変わります。その力の大きさはキリスト教の教皇が時のローマ皇帝を跪かせたことからも窺えます。

人々の祈りのようなものが実体を伴った姿が宗教と捉えると、これは実体を持った時点で紛れもない現実となっており、その現実は人々を虐げたものの一部であるとも言え、その信者の数が多ければ多い程その中に含まれる考えは統一されたものではなくなります。
そして世の中というものは不平等なものであり、多くの場合それはやがて組織の中で権力の集中が生まれることになります。
それは宗教も例外ではないでしょう。

つまり宗教というのは、信者が信じることによって生まれる祈りの力、それを影響力とでも呼びましょうか、その力はいつしか恣意的なものに変わる危険性を孕んでいると言えるではないでしょうか。

今回は宗教を挙げさせて貰いましたが、これは宗教に限らず理想を元に作り上げられた団体や会社のようなものも含めて、やがて夢のようなものが実体を持ち始めれば今まで自分たちが抗議するべき現実の一部へと変化したとなれば乖離が生じるとのは必然であるのかもしれません。

そして現実の苦しみから逃れるための願いが宗教であるとすれば、現実が民衆を満たせば満たす程にその力を弱めていくことになるのかもしれない。
それはアヘン中毒者が治療されていく過程で次第にそれを必要としなくなるようなものなのでしょうか。

異論や反論は数多くあると思いますが以上のようなことを思ったので書いてみました。

それでは本日この辺で