ペリーがやって来た

久里浜海岸 幕末

1853年7月8日(嘉永6年6月3日)
東インド艦隊を率いるマシュー・ペリーが日本に来航します。

翻って考えてみると幕末維新というのは幕府の弱体化によって、より日本を統治するに相応しい者への交代劇であったのではないかと思います。幕府はペリーの乗った黒船の来航によって開国要求を突きつけられるのですが、これを拒むことが出来ない。朝廷は攘夷を望んでいるにも関わらずです。この点が革命を求める次の実力者達に行動を促す結果へと繋がったのだろうと思います。

東インド艦隊とは

先ずマシュー・ペリーについてですが東インド艦隊を率いる司令長官の10代目にあたります。前代の長官オーリックは更迭されているので何事かをやらかした為の交代の後釜であったようです。因みに東インド艦隊が日本に来る理由は、東インド艦隊の設立目的が中国・日本・東南アジアの海域で自国の権益と自国民の保護する事にあったからです。

黒船とは

そもそも黒船とは何ぞやの部分なのですが、黒船は遠洋航行を前提とした大型の西洋式航洋船のことを指し、船体が黒いのは防水の為にピッチという粘弾性を持った樹脂で黒色に塗っていた事から黒船と呼ばれました。また、ペリーの率いる黒船艦隊というと鉄製の蒸気船というイメージが有ると思うのですが普通に木製です。蒸気船は2隻で残りの2隻は帆船です。また蒸気機関での航行は港湾内のみであり、外洋では通常の風を利用した帆走です。
これだけだと思ったより黒船ってしょぼいんだなと思うのですが、

来航した4船の内訳
蒸気外輪フリゲートのサスケハナ2450トン
ミシシッピは1692トン
帆走船サラトガ882トン
帆走船プリマスは989トン

これらの見た事のない大型帆船が現れて数十発の大砲を空砲とは言え轟音を響かせて来航したのですから江戸時代の人間が腰を抜かすのも無理はありません。また幕府は幕府で日清戦争でイギリスが清の海軍を壊滅させていることを知っているので幕府の黒船来航による混乱も大きなものであったと思われます。

この黒船の大きさがどれほどのものかと言うと、日本で16世紀頃に作られていた安宅船は大型のものになると3000石積みに及んだというのでトンに換算すると500トン程度と言った所でしょうか。この船は城が海に浮かんでいるようだと形容されていましたがペリー艦隊のサスケハナは2450トンなので文字通り桁が違います。しかも蒸気機関は縦にも横にもスイスイ動いてくれるので機動性も日本の船と比較にならないという有様でした。

日本の造船技術が遅れている理由

日本と欧米との間に造船技術に差が生じている理由は幕府が大船造船の禁(おおぶねけんぞうのきん)を武家諸法度で定めて軍艦の建造を禁じていたというのが大きな理由になると思います。更に加えると日本は鎖国をしています。つまり海外に船で出て行くことがありません。従って、外洋に出て行く船を持つ必要がありません。もしも海外と交易を行っていれば一度の航海で多くの荷物を積めるように船舶の大型化も行われていたと思うのですが交易自体が禁じられているので日本の船は近海を渡る中小型程度のものしか存在しませんでした。
黒船の大きさをあらわすエピソードとしては黒船が来航した際に日本は警戒して監視をさせるのですが、監視者の報告の中で「およそ三千石積みの舟四隻、各舟共に帆柱は三本、補をたたみ黒煙を上げ飛ぶ鳥のごとく疾走、たちまち見失い候」というのが残されています。これは監視者が黒船ほど大きなものを見たことが無い為に大きさの見当がつかずに三千石(500トン程度)と誤ってしまったようです。

ペリーの手土産

そして一方のペリーですが、日本に来航した東インド艦隊は沖縄に寄港して率いて来た船団の一部を残してやって来ます。意外なことに黒船は日本に渡す贈答品を積んでいました。先ずは黒船の偉容を見せた上で贈答した品からアメリカの技術はこんなに進んでいるんだというのを見せ付けることでアメリカには勝てないと思わせようと目論んでいたようです。贈答品の中には蒸気機関といった先端技術の使われたものが含まれており、それを島津斉彬が幕府から無理矢理借り出して、蒸気機関を作らせることに成功するのはペリーの想像を越えていた部分ではないかと思います。もしも斉彬が長生きして蒸気機関を積んだ大型船舶を完成させたついでにライフルを装備した兵たちを揃えて毛唐共の腰を抜かしてやれたら愉快この上なかったのになぁと思わずにはいられません。ついでに言うと斉彬は生きている間に蒸気機関を積んだ小型船を作り、西洋型帆船の造船にも成功していました。

ペリーへの反感

ちなみにサスケハナの船体の真ん中位の位置にある車輪は蒸気機関になり、あそこが弱点か?と思わせて本当に弱点です。しかし見たこともない船から降ってくる銃弾と大砲の雨を潜り抜けて砲撃するのは当時の日本では到底出来る筈のない話でした。
因みに第一回目のペリー来航時には吉田松陰も黒船を見ており宮部鼎三へ宛てた書簡で我が日本刀の切れ味を見せたい。と物騒なことを書き送っているそうです。しかし後に長州と英国が戦った下関の戦いでは日本刀による死傷者は出なかったので、恐らく本当に次の年にペリーが来た時に実行しようとしても失敗に終わった公算が高いかと思われます。

いよいよ日本も開国について本格検討する時期が来たのでした。

黒船(サスケハナ)

published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association)