この作品はバットマンの悪役ジョーカーが生まれるまでの物語です。
社会映画とも受け取れる奥深い脚本と主人公であるアーサー・フレックを演じるホアキン・フェニックスはアカデミー賞 主演男優賞を受賞したのも納得できる不気味に思える程の怪演を見せていました。
観るべき映画の一つであることは間違いないと思います。

私がこの映画を見て社会とは一つの連環であるということを思いました。

主人公アーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)の特徴をいくつか挙げてみます。
痩せた身体。
年老いた母を養い気遣う優しさ。
精神を病んでいる。
空気を読めない不器用さ。
自分の演じるピエロで人を笑わせたいという奉仕精神。

彼の持つ性質をいくつか挙げてみました。
これだけ見れば愛すべき好人物のように思えます。

もしも私の職場の同僚で彼がいたなら愛すべき好人物として扱ったのかもしれないとも思います。痩せて突然笑いだして空気も読めない中年男性なんて気持ち悪い以外の何者でもないので好きにはならないと思いますが職場に一人位こういった人物も必要なのかな等と思いながら、こちらから近付くことはせずミスを見つけたら適当にフォロー位はするし、おそらく自分以外の同僚も同じように彼のフォローをして過ごすのではないかという気がします。
そうして昼食で一緒になったら彼が「母が昨日こんな番組を見て喜んでいたんだ」等と言う話を聞いて「君は母親思いなんだね」なんて話をしていたのかもしれない。
平和な町で彼が生まれていたらの話です。

しかし彼が生まれたのは1981年の犯罪都市ゴッサムシティです。
そこでの彼はテレビで尊敬するマレー・フランクリン(ロバート・デニーロ)が司会する「マレー・フランクリン・ショー」を見ながら、いつか自分も認められて彼のように称賛されることを夢見て番組に自分が出演して称賛を浴びる幸せな想像にうっとりして過ごすような人物です。
おそらく父のいない彼がマレーに向ける感情には父親に向けるような感情も混ざっていたのではないかと思います。つまり彼が一流のコメディアンになる夢にはマレーから認められるということも含まれていたんだろうと思います。だから彼が成功する想像の中ではマレーが彼を見出し引き上げてくれる。
それはあたかも子供が父親に認められてることを望んでいるかのように見えました。
決して恵まれているとは言えない彼を慰めてくれるのは想像の世界です。

しかし悪人から見た彼は反撃されるリスクもなく容易く奪うことの出来る紛れもない弱者に過ぎません。
仕事で店のセールをピエロに扮して周囲に告知する彼から街の少年達は仕事道具を奪い、それを取り戻そうと追い掛けてきた彼に集団で暴力を振るい金を奪います。

作中の彼を人は寄ってたかって迫害し嘲笑する。もしくは見下すか不気味がる。それか略奪の対象とするといった具合です。
数少ない例外は母親のペニー。他には小人症のゲイリーが自身の身体的な特徴による弱さと心優しさ故にといった所でしょうか。
精神病院に戻りたいとカウンセラーに言った彼の言葉は偽らざる本音です。

そんな彼に銃という暴力を手に入れることで転機が訪れます。
これを得たことで彼は人を殺すことになり、意図せず人々から称賛を受けることになります。

彼にはいつか一流のコメディアンになって人を笑わせて称賛を受けるという夢があります。
彼は弱さという同質さから身体を暖めるように寄り添う相手はいましたが、彼のことを理解して受け入れてくれる人物は皆無でした。
故に彼は誰かに受け入れて欲しいという願望を抱え続けて生きてきたのではないかと思います。
それはきっと些細なものです。
彼が母親から父親だと知らされて訪ねた相手に「抱きしめてくれるだけでいい」と言ったのはおそらく本心です。
しかし父親だと思った相手は自分が父親であることは頭のおかしい母親の思い込みであると拒絶します。
そんな失意に沈む彼に齎されたものは自分を受け入れられることを望むマレーからのコメディアンとしての彼の否定でした。
つまり彼が父性を求めた相手から与えられたものは拒絶と否定です。

そして生物学的な父親だと思っていた相手から彼は他に出生の秘密を教えられます。
それが事実であることを確認したことで彼は母親すらも失いました。
彼が時に寄り添い助け、秘かに夢見て心の拠り所としていた家族さえも彼からは失われてしまいました。

残ったものは人を殺したことによって得られた称賛だけでした。
アーサー・フレックという人間は追い立てられるように「ジョーカー」へとその姿を近付けていきます。

彼が持っていた夢や希望というのは誰もが当たり前に持っている些細なものでしかなかった。それら全ては粉々に打ち砕かれてしまい、その目には手を差し伸べようとする人の姿は絶望に曇り写らなくなってしまいました。
些細な自分の居場所を求めるアーサー・フレックという人物の存在することを許された場所はジョーカーという悪に染まる以外には残されていなかった。
自分の実像を知る人を消すことでアーサー・フレックという人物は急速にその身をジョーカーという存在しない人々の想像するキャラクターへと近付けていきます。

アーサー・フレックが受け入れられることはありませんでしたが「ジョーカー」という存在は人々が受け入れその虚像の実在を望んだからです。実在しないのであれば自分が「ジョーカー」となれば良い。
「ジョーカー」の誕生です。

社会とは連環です。
言うまでも無く人は社会の中で生きています。
それらの人々によって社会は構成されています。
つまり人が生きるということは社会に含まれるということです。
そこから弱者であると見捨てられたり追い出されることは死を齎されるに等しい。
そうなった時に人がどういった行動を取るのでしょうか?
その答えの一つがこの映画には描かれています。
それは今まで自分という存在を拒絶した社会の破壊です。
もしも、こうなる前にほんの少しだけでも皆が彼に優しさを向けることが出来ていたなら、何かこいつ気持ち悪いなぁと思われながらもお人好しで空気の読めない愛されるべき一人の男がいただけなんじゃないかと思えるのです。

それでは今日はこの辺で

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投稿者: 悲しい笑い

ブラック企業を渡り歩き、どさくさに紛れて営業のマネジメントや新規事業の立ち上げをやったりしていました。