45歳定年説と聞いて思うこと

錯覚 社会派気取り

サントリーホールディングス社長の新浪剛史氏が45歳定年説を唱えたことで一時騒動となりました。

会社は利潤の追求を行っています。
利益は社員が働くことで生じます。
つまり社員がいなければ利潤の追求は果たせません。

そんな中で社員を減らすこととなる45歳定年説が言葉に出された背景にはマネジメントの出来る人間が不足しているという日本企業特有の問題が存在しているのではないかと思ったので書いてみます。

多くの社員は入社して暫くするとプレーヤーの中で優秀な者からマネージャーへと役職を変えていくのですが「名選手必ずしも名監督にあらず」の言葉通り、マネージャー職になると業績を上げられなくなる者が出て来ます。
例えば営業職として実績を上げたのを見てマネージャー職にしてみたら、営業としての適性はあったがマネジメント職の適性は無かったのか業績を上げられなくなった。
冒頭で挙げたサントリーの例で言えば、このマネジメント職としての適性を持たなかった人たちをどうにかしたいのだろうと推測します。

個人的にはじゃあマネジャーからプレイヤーに戻せば良いのではないだろうか?と思うのですが同じ年次で一人だけ課長になってないから課員0の課長にしよう等という謎の人事を行っている日本でそれが出来るかと言えば、やはり難しいのだろうと思います。

日本的な観点からすればマネージャー職になるというのは昔の職人の考え方がそのまま続いて現代に至っているのだろうかと推測します。
職人として優れている人物がいたとして、経営者はその優れた技術を他の職人に多く伝授して欲しい。その要望通りに教育者として自分の技術を伝えた生徒が多くなり信頼を寄せられるようになって現場をまとめる役割を担うようになったという流れがあるのだと思います。
そしてまとめる者は基本的に高い技術力を持っていることを理想としています。

更にマネージャーというのは何故か今までマネージャーとしての経験や知識が無くても任されれば出来ると錯覚している人の多い職種だと個人的には思っています。

以前、私が在籍した企業で営業として入社した私に元営業の社長が言ったのは「俺より営業で売り上げを上げられる奴がいたら社長の座は直ぐに譲るよ」です。
私以外にも同じようなことを言われたことのある人は多いのではないかと思うのですが、この発言から窺えるのは社長が営業としての延長線上にマネージャーがあると捉えているということです。
しかし実際には営業能力とマネジメント能力は共通したものもありますが基本的には別物です。

これは違った職種に置き換えて考えてみます。
営業で優れた業績をあげた。
じゃあプログラマーとしても優秀な筈だ。
そう考えてプログラマーとして異動させれば高い可能性で失敗する筈です。
確かに必要な業務知識は持っていますが、それをプログラマとして実績に繋げるにはプログラミングの専門知識といった技術が欠けているからです。
同様に先にあげたマネージャーの例だとマネジメントする技術や知識もしくは適性が欠けている可能性は考えられないでしょうか?

先程の不運な人事でプログラマーになった人物は営業職に戻すのが正解です。同じようにマネジメント職で失敗した場合も戻せば良いのではないかと思うのです。

ではこの考え方の通り、例えば私がマネジメント職に就いた後に再びプレーヤーに戻されるとなった場合どう感じるかと言われれば恥辱であり屈辱です。

これは何故だろうと考えて見ると、マネジメントを自分が出来るという錯覚を抱いているからです。そしてマネジメント職に就くということは大抵の場合、今までの同一職種のまとめ役となるケースが多い筈です。以前まで営業をしていたら営業部の課長になるといった具合です。
そこで先述の職人のまとめ役としての考え方と結び付いてくるのですが、通常の場合だと今までの職種で能力を発揮するか経験を積むことで自動的にマネジメント能力が身に付いているという錯覚があります。
技術力とマネジメント能力が伴って付いている筈のマネジメント能力に疑問符が付いた。ということは技術力にも周囲は同時に疑問符を抱くことになります。
更に問題になるのは技術とマネジメントは別の業務であるということ。ということは使わない能力は衰えるので技術力もマネージャー職に就いていた時間だけ下がり、更に世間の技術情報が更新されていれば、それを自分の中でアップデートする時間が必要となり、それはそのまま周囲との遅れとなって疑問符を抱かれた通りとなってしまう。
この二重の屈辱に耐えられるかと言えば無理な人が多いだろうと考えると、マネジメント職から一般職に戻すのは先のサントリーのような大企業で考えれば会社から下される事実上の退職勧告となるので、結局、周囲が抱いた疑念は正しかったとなるのだと思います。

でも今まではそれで皆うまくやって来たじゃないか?という意見もあると思います。
それについて思うのは実はマネージャー職は今までマネジメントしていない人が殆どだったのではないだろうかと思います。

先程のまとめ役として求められる能力はその人に付いていこうと思わせる人望か部下を従わせる強制力のようなものだったのではないかと思うのです。

営業の経験で言えば私が今まで見て来たマネジメントは上層部が設定した売り上げ目標を達成する為に課員に売り上げが上がらないとクビにするぞと脅したり、無意味に部下の人格を否定するか少し気が利いた人だと代わりに売り上げが上がればボーナスが出るように掛け合ってやると餌をぶら下げてくる人がいるといった例がせいぜいです。
車の運転で言えば、とにかくアクセルを踏め。
古代の奴隷で言えば、とにかく鞭で奴隷を叩いて働かせる。
以前の市場にまだ商品が行き渡っていなかった時代ならマスプロダクトした製品をプロダクトアウトだろうが何だろうが市場に商品が求められているのは事実なのだから拙速であっても手法のクオリティなんか気にせず手を付けることが重要であったという時代であれば問題なかった。寧ろそれこそが求められていた行動でした。

しかし今の時代、必要な製品というのは大体行き渡っています。おまけに海外で製造して安く販売するライバルも数多くいます。
そのような市場が成熟した時代にアクセルを踏み込むだけで良いというマネジメントは通用しません。それはマネジメントですらない。

本来のマネジメントは課題に応じて経営資源を有効に活用することで目標を達成することです。

今までのように全体の方針に沿ってアクセルを踏むだけでなく、各々のチーム毎に降りかかってくる課題に対応するべく、マネージャーが走る道に合わせてハンドルを切ればブレーキを踏む必要も出て来る。それどころかコンピューターチューンを掛けてエンジンの吸入空気量に対してどれだけ燃料を噴射するかを変えたり出力比もドライバーやコースの癖に応じて変えるといったように事前に想定される困難に対して可能な限り最適な準備をして的確な判断をするだけでなく状況が変われば臨機応変な対応も求められるといった具合にマネージャーに求められるものが変わって来てしまっているのだと思います。

今と昔ではマネージャーに求められる資質が変わって来てしまっているのですが一般的な人の持つマネジメント職へのイメージは錯覚を超えて一般通念となってしまっているのでこれを変えることは難しい。
それならば定年ということでマネジメント職の適性の無い人を一度切り離して改めて適性の高い職へと再配置することで生産効率を上げたいと経営者は考えると思うのですが、今の終身雇用でそれが叶う筈もありません。

しかし悲観的になる必要はないと同時に思っています。
今までつらつらと書いたことの裏を返せば中堅層を活かし切れていないということです。
従って、この人たちが本格的に稼働するようになれば日本企業には未だ伸びる余地が残されているということでもあります。
お荷物と切り捨てるのは容易ですが、切り捨てたものは容易に返ってこないのも事実。
これは理想論となりますが私としては出来るならこの人たちが立ち上がることで日本企業には華麗なる復活を遂げて欲しいというのが率直に望むところなのです。

それでは今日はこの辺で