駅でモヤモヤした話

もやもや 徒然日記

駅のホームで中年男性が跪いて小さな女の子に何事かを話している姿を遠目で見掛けました。
女の子の傍には母親らしき女性が立っていて、初め父親と娘の微笑ましい風景なのかな等と思いながら何の気なしに眺めていたのですが、近くに寄ると雰囲気がおかしいことに気付きます。

詳しい経緯は分からないのですが、どうやら男性の背負うリュックが女の子にぶつかってしまって母親が男性に謝罪を求めたものであるようでした。
男性に対して母親がぶつかったことを注意して、始めは立ったままで男性が謝罪したようなのですが、女の子に謝るように要求して、それに応えて男性が跪いて女の子に謝っていた所に私は行き当たったようでした。
どうも女の子よりも母親の方がヒートアップしている様子で、男性の謝罪だけでは収まらないようで結局、男性は「すみませんでした」そう言って逃げるように、というか走って逃げて駅から出て行ってしまい、その後ろ姿に母親は「私はまだ許してないんですけど」と言葉を投げ掛けていました。

混み合う時間なので自分も気を付けなくてはいけないなぁ等とは思うのですが、難しい問題だと思います。確かに母親からすれば故意ではないとは言え大事な娘を傷つける行為は許しがたいものであったのだろうと思います。もしかしたら階段付近の狭い通路だったので男性が女の子をホームに落としそうになったのかもしれません。

片や男性も急いでいたのではないかと思いますし悪気もなかったのだろうと思います。
仮説として女の子がホームに突き落とされそうになっていた場合、もしも本当に落ちていたら一大事ですが、落ちていないならそれでだけで男性に何らかの法的な処罰を望むのは難しい。
そう考えると男性側からすれば大きな事故にならなかったし、そこまで責任を追及される謂われもないという気持ちを抱いていたかは別として逃げ出した気持ちも分からないでもありません。

この状況を見て人は何を思うのでしょう。
1.何も無くて良かった
2.男性は母親の気が済むまで謝罪するべき、逃げるなんて卑怯だ
3.男性はきちんと謝罪したのだから母親も寛容さを見せるべきだ

上の3つの考え方のどれであっても頷けるのですが、これは思った以上に世の中が多様性に満ちていることの表れなのかもしれない等と思います。

物事の正しさと言うのは所詮、相対的なものに過ぎないとどこかで聞いたか読んだ言葉を思い出します。

先ずは各々の立場に立った場合を考えてみます。
母親の立場に立った場合。
大事な娘を傷つけられて憤る気持ちはよく分かります。但し、実害を受けた訳ではないので謝罪以外に求められるものはない。従って賠償金を求めるなら下手したら強請になります。かと言って駅のホームで急いでいて小さな子供にぶつかるような人間が撲滅される筈もない。そしていくら謝罪されても許す気持ちがなければ今回のように逃げられるのがオチになるしかないのだろうと思います。
そして子供を危険な目に遭わせたことで初め男性は母親に謝罪をしたと思うのですが、母親は娘に対して男性に謝罪するよう要求を行い、その要求が受け入れられたにも関わらず、まだ許していないと怒るなら、自分の気持ちを優先して相手に対しているということは理解しておいた方が良いと思います。それは後々自分の為にも彼女と関わることになるであろう人々の為にもなるのではないかと思います。

次に男性の立場になって思って見ます。
駅のホームですれ違う小さな子供に気付かずにぶつかって駅のホームに落としそうになるか持っていた鞄を頭にぶつける程度には急いでいたのでしょう。
急いでいる時ほど、時間を取られる出来事に出会うことになってしまうのは誰にでも思い当ることが一つ二つはあるではないでしょうか。
かと言って、急いでいるという理由が他人に危害を与える免罪符にはなりません。
唯一の幸運はこの男性が小さな子供に実害を与えなかったことです。実害を与えていた場合は正直、考えたくありません。とても不幸なことになるのだけは間違いないとしか言えません。
そして男性は母親が感情で話していることを理解したのだろうと思いますし、謝罪を行った上での撤退は限られた選択肢の中では致し方ないのかもしれない等とも思います。

このやり取りをしていて筆者がもやもやしてしまうのは、この場合に於いて誰が正しくて誰が悪いと切り分けることが出来ない点にあるのだろうなぁと思いました。
と、言う訳で本日は読んで貰った人達にもモヤモヤした気持ちをおすそ分けする内容となりました。

それでは今回この辺で