厨二病になった方が結果的に救われるのかもしれない

厨二病 徒然日記

中二(厨二)病は文字通り中学二年生の頃に罹患することが多いと言われます。

言葉自体の発祥については伊集院光がラジオ番組の一コーナーの中で使い始めたと言われますが、本人は厨二病と言う言葉は使い始めた時と意味が違ってしまっているとの事で興味を持ってはいないようです。

厨二病の病状としては必要もないのに眼帯を付け始めたり怪我もしてないのに包帯を巻き始めたり、他にも自分には秘められた力があると宣い勝手に苦しんだ挙句クラスメイトに
「奴が暴れだして右手が疼く」
「なんだナニのやり過ぎか?」
と返されるといったハートウォーミングなやり取りをしたりしなかったりします。

あれ?俺は一体何をしているんだろう?と我に返れば厨二病が治るのも間近です。
そっとして置けばそれは黒歴史と呼ばれ無かったことになります。

さてこの中二病の根源とはいったい何なのでしょう?
と思って考えてみると、自分は人よりも優れた特別な存在でありたいという当たり前の願望のようなものを持っているのだろうと思います。
自分は選ばれた特別な人間でありたい。

思い出して見て下さい。無知で何も知らない子供のころ自分は何でも出来るし何にでもなれると思っていませんでしたか?
私は思っていました。
私の場合は成長するに連れて現実を知ることになりました。
サッカー部に入部してプロになって活躍してやると思ってみたら自分より上手い人間なんかゴロゴロしていて現実はレギュラーにすらなれない。
じゃあ勉強でと考えてみたら定期テストの順位を見てみたら普通に下から数えた方が早い。
そういった事実を知るに連れて自分はどうやら特別な人間でないみたいだと思い知らされます。
言うまでもなく世の中の殆どの人間は凡庸です。
あまり認めたくはありませんが自分はその他大勢に過ぎません。
いえ、それどころかインドのカースト制度で言えば最上位のバラモンよりもバカモンの方が近いという事実を受け入れるには多くの時間を要しました。

そういった事実に気付いて自分が特別でないことを認められなかった時に掛かるのが厨二病なんだろうと思います。

道筋としては、現実で自分は特別ではないと知る。しかし異世界と自分は繋がっていてそこで自分は認められているとなれば自分は現実世界でも特別な人間です。

この設定を人に言わず隠していれば結果として特別でない自分を慰撫することになり、やがて事実を受け入れて成長してから部屋の片づけ等の際に文字通り黒歴史を発掘することになって悶絶することになります。
これを人に言うかバレるかすれば別な意味で特別というかアレな人として周囲から丁重に扱われることになります。触るな危険という奴です。

でも別にそれで良いのかもしれないとも思うのです
よく特定の宗教を持たない人間よりも持った人間の方が幸せであると言われます。つまりは心に掛かる負荷のようなものをある程度は神という存在に預けられる方が幸せに生きられるという考えです。
厨二病も多くの場合は時限的ではあっても自分が特別な人間ではないという認められない事実によって掛かる心の負荷のようなものを異世界と繋がっているという設定で和らげ心が成長して事実を受け入れられるようになったら忘れてしまえば良い。

あるいは中二病というのは自分が特別になれる領域を探す課程の一つであるのかもしれません。運動がダメなら勉強で、それでもダメなら芸術。そうやって時々異世界に逃げたりしながら自分が特別になれるものを探していけば良いのかなという気もします。

もしも大人になった私たちが厨二病患者を発見した際には小さな幼児がイマジナリーフレンドと仲良くやっているのを見守るが如くなま温かい目で成長を見守ったり過去の自分を思い出して悶絶したりしていれば良いんだろうと思うのです。

それでは今日はこの辺で